showcase 005 1/3




『これからはじまる夕暮れに』


 海は好きだと思う。
 この時期の、穏やかに暮れてゆく海は特に好きだと思う。
 砂の上に直接腰掛けて、軽く膝を抱えて、私は、遥かに遠い水平線に目を凝らす。
 金色の太陽に目を凝らす。
 やがてくる夕焼けを、わずかに凪ぐ水面を、暮れなずむ空に瞬きはじめる一番星を見るために、私はただじっと目を凝らす。
 それはいつの日からか生活の中に組み込まれた、今日を終える前の、ささやかな儀式。
 それからきっと――あの夏が見せた夢を忘れないための、ささやかな時間への抵抗。



 茹だる夏にいい加減嫌気がさしはじめたその日、気分転換をしようと思って私は散歩に出た。
 私の家からは、少し歩けば海に行ける。
 太陽が西に傾き始めた昼下がり。段々と潮の香りが強くなる風が、ほどいた髪をなぶっていくのが気持ちいい。
 焼けたアスファルトの歩道が砂混じりの土になって、やがてそれが完全に砂だけになる。
 最後に海岸植栽の茂みをすり抜けて、開ける視界には明るい海と明るい空だけ――だと、思っていたのに。
 ここは地元の人しか知らない結構な穴場だし、この時間帯は人なんているはずはないのだけれど、思いがけず、そこには先客がいた。

「暑いな」

 砂を踏みしめる音で人が来たのがわかったのか、その人は振り向いて、呟きだか問いかけだか判断不能な言葉を発した。
 視線が私に向かっているので、多分、応えなくちゃならないんだろう。

「夏、だから」

 当たり前の台詞でしか対応できない私は、その男の人に見覚えがあって、ちょっとびっくりしてしまった。
 見覚えがあると言っても、知り合いというカテゴリーとは同義ではない。
 どうしたらいいんだか困って立ち尽くす私に、なんでもないように彼は話しかけてくる。
 ちょっと立ち寄るつもりのはずが、この海に魅入られた、と彼は笑った。
 シャツの袖から伸びた腕が、陽に焼けて、少し赤くなってきていた。


 ――数日前の夜、私はその人の歌う声を聴いていた。
 ドライブしながらたまたま通りかかった道すがらの渋滞。近くで行われていたイベントが原因らしいそれのせいで、私は結構いらついていた。
 もともとイベントなんていうものには興味がない性質だし、家の方向の遠くの空がひどく曇っていたから、朝干して出た洗濯物が気にかかって仕方がなかった。
 ここの空は綺麗に晴れているのに、向こうは今にも降り出しそうな、重苦しいグレー。
 ついでに干してきたお布団が濡れたら、私は今夜どうしたらいいの?
 そんなことを思っていたら、車内はクーラーで冷えすぎてしまった。粟立つ肌に少し慌てる。
 空気を入れ換えようと窓を開けたら――風より先にするりと車内に入りこんで、聴こえてきた、イベント会場からの声。
 海に沈む夕日に、夕焼けて燃える空に、温く渡る風に、瞬き始める星に、温かく広がって沁みこむその声に、私は暫し聴き惚れた。
 イライラは、知らないうちにどこかに消えていった。


 何度か紙面で見かけた時は、細い人だなという印象しかなかったのに。傍で見ると、彼は大きな男の人だった。
 女の私に比べたら、細いわけも小さいわけも勿論ないだろうけど。
 ただ、大きな男の人だな、と思った。
 その大きな彼は、海を見ながらまた一言「暑いな」と言った。

「…ちょっと待ってて」

 返事を待たずに、私は今来た道を戻る。
 私の家とは反対側に少し行くと、おばあちゃんが一人でやっている小さなお店にたどり着く。
 顔なじみのおばあちゃんからアイスキャンディーを2本買って、私はまた海岸植栽の茂みを抜けた。

「あげる」
「…ありがと」




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