showcase 010 2/4
『朝顔』
ああ、誰かと話がしたいなぁ。
ベランダに置いてある鉢植えに水を遣りながら、ふと独り言が零れそうになった。
夕方に家を出て、夜中に帰って来るのが最近の私の生活サイクル。
仕事の都合上仕方のないことなんだけど、「時差ボケ?」と思えるくらい大変だった始めの頃に比べたら、大分慣れてきた今日この頃。
すっかり夜型になってしまった私のタイムスケジュールは、そのせいもあって朝方くらいにしか自分の時間というものがない。ま、昼間に外出なんてできないから――昼間は睡眠時間なので――帰宅してから寝るまでの僅かな間、録画しておいたテレビ番組を見たり、時間が合わなくてすっかりメル友と化した友人たちからのメールを確認したりと、俗に言う「引きこもりっこ」な様相を呈している。
本当に、ここ2週間ほどは仕事以外で人に会ったことがない。
休憩中に時々かかってくる彼からの着信が、唯一、私と外界とを繋ぐリアルな回線。そんな日々。
彼もずいぶん忙しい人で、私たちは以前からなかなか時間を合わせることができなかったのだけれど、今はそれ以上に逢う時間というものが取れていない。
私が仕事の詳しい内容を言わないのと同じで、私は彼の仕事の状況を知らない。いつが休みだとか、お互いそういうのしか訊かないし、最近は訊いても合わせられないのだからどうしようもない。
そもそも、私には昼間の彼は眩しすぎる。
時々電波に乗って届いてくる彼の声は大抵楽しそうで、周りの雑音も賑やかで。
それを聞いていたら、元気になるどころか、私はすぐにしおれてしまう。私は寂しいのに彼だけ楽しそうで、変に嫉妬してしまう。
――あなたに逢えない間にも、植えた朝顔は双葉からぐんぐん成長して、いつの間にか蕾までつけてるよ。
鉢植えの底から流れた水がベランダに川を作った。
コンクリートの床を濡らす線も、捻じれて支柱に絡んだ蔓も、まだ明けきらない空の下では、暗くて冷たいものにしか見えない。
いつもはドライアイ気味な目が急に潤う。
溢れた滴がつっと頬を伝って、私の身体に溜まったストレスが決壊した。
…知ってる? 涙って、血液中のストレス物質が体外に排出されたものなんだよ。ストレスが一定量を超えて「もうムリー」と思ったら、涙にして外に押し出すの。
その証拠に、泣いたらすっきりするでしょう?
泣くというのは「そろそろすっきりしたいです」という身体からの合図で、私はその本能に従って体内環境をリセットすべく涙する、というワケだ。
ああもう、ぐだぐだしてるの全部流して、まっさら綺麗な私に戻ってやる。
水遣りを中断して部屋の中に戻る。
私はTV台の棚からティッシュの箱を取り出した。最近はやりのぺしゃんこの箱に入ったいつものやつじゃなくて、ちょっと高級でお肌に優しい柔らかいやつ。
ソファに座って箱ごとそれを抱えながら、私はぐしぐし泣いた。
よく泣く時の表現に「しくしく」って使われるけど、そんな風に自分をヒロインにするような柄じゃないし、自分で自分を哀れんで泣くようなお目出度い性格でもないんで、「ぐしぐし」。
涙と同じくらい鼻水だって出るわよ。
…汚いとか言ってないで。生理現象なんだから仕方ないでしょう。全部流れたらすっきりするんだから。
私はひとしきりぐしぐし泣いた。
そろそろ決壊も治まるかなと思っていたら、唐突に玄関でかちゃりと小さな音がして、ゆっくりドアが外側に開いた。
…なんてタイミングなんでしょうね。
その向こうには、ぼやけた視界でも間違えようのない、私の涙の原因の、その人。
「またチェーン掛けるの忘れてる」
見計らってたとしか思えない登場。
「無用心なんだから」と呆れたように言いながら、彼は鍵とチェーンを掛け直し、靴を脱いで部屋に上がってきた。とんとんと軽い足音が近づいてくる。
…チェーンを掛けたらその手の中の合鍵の意味がなくなると思うんだけど。知ってて言ってるのかな、この人。
「あ。やっぱり泣いてる」
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