showcase 023 2/5




『宵待草』


「俺、帰るわ」
「…ん」

 毛布に包まったままの私に背を向けて服を着ながら、彼が言った。
 部屋の中は薄暗く、街灯の灯りがカーテンから僅かに透けている。室内に唯一の明かりといえば、一時停止されたままのオーディオのディスプレイ表示が、ちかちかと点滅しているだけだ。
 私はその灯りをぼんやりと眺めた。
 灯りを認識することで、意識とは呼べない感覚だけの闇の底から、ゆっくりと浮上する。
 …誰の歌、だったっけ。
 熱の奔流の前に部屋に流れていた曲が、思い出せない。流れを変えたリモコンなら、彼の手によって枕の上あたりに放り投げられているはずだと分かるのに。
 翻弄されるばかりの私の意識は、未だ混濁したままらしい。
 余計な音に僅かに苛立ちながらも、いきなり電源を落とすような真似をしないのは、彼なりの気遣いだろうか。
 私は重い腕を持ち上げて、指の背で目尻を擦った。
 視線の先、安っぽい偽物の蛍のようなそこに、熱はない。
 電気という名の光り輝くものは、とても眩しいものではあるけれど、生きているもののような熱を感じさせなくて嫌いだと、そう思った。

 ――あれは誰の、歌だったか。

 蛍の瞬きがふいに見えなくなったと思ったら、一瞬遅れて、夜に淀んだ部屋の空気が動いた。生きている熱をもつ彼が、上着を拾うために屈んだからだ。
 上背のある彼が動くと、小さな部屋をより小さく感じてしまう。この部屋の狭さの内に彼を留めておくことに、何故だか罪悪感を感じてしまう。
 私はいつものように、目だけで彼を追った。
 彼は伸びた髪に手櫛を通して来た時と寸分変わらぬ姿に戻ると、振り返ってベッドに片膝を乗せた。
 ぎしりと軋んだ音は、いつもと同じ。
 ――去り際にはくちづけをひとつ。
 先程までに比べたら物足りないと思わせる触れ合いだけで、彼はいつも、次の夜まで私を繋ぐ。
 …彼は卑怯者だ。
 卑怯者だとわかっていながら繋がれる私も、私なのだけれど。
 私たちはそういう関係なのだから、きっと、なにもかもが仕方のないことなのだろう。


 出会ったのはいつだったのか。
 きかっけは何だったのか。
 アルコールで流された先に、何処へ行こうというのだろうか。
 ――いつまで、続けようというのだろうか。
 自分に問いただすべき質問は、あとからあとから湧いて出てくる。
 子どもの恋と言うには深すぎて、大人の恋と言うには稚拙。…そもそも私は、彼のどこを好きだと思うのか。
 全てを許す夜を繰り返しながらも、私は未だにそれを理解できずにいた。
 ただ夜に流されて、ただ彼に流されて、この関係に甘んじる。
 曖昧に笑う私を取り巻く曖昧な環境の中で、彼の温度だけがそこに確かな熱を感じさせていた。
 私の意識ではそれを認識するのが精一杯で、いつも、それ以上について考えることを放棄する。
 …彼はそこに、気づいているのだろうか。
 自分の思いを口にしたり、私の思いを問いただしたりしない、彼は。


 せっかく長くて綺麗な足なのに歩き方がどこか不恰好なのが、彼というイキモノの特徴だ。
 背中を丸めて靴を履き、必ず1回、靴先でトンと軽く床を蹴る。靴べらを使うようになっても癖は抜けないのだと、いつだかそう言っていた。
 私はその音にこっそり笑う。
 ドアを開けて、閉める。鍵がちゃんと掛かったかを確かめるために、ノブを回す。
 ――がちゃん。
 それからやっと、コツコツと足音が遠ざかって行く。
 私はまた、こっそり笑った。
 それから毛布ごとベッドを抜け出して、オーディオの傍まで、僅か数歩の距離を移動した。
 放り投げられたリモコンは――多分また彼が使おうとするだろうから、私は敢えて使わないことにして。
 蛍の前にしゃがみ込んで、ずるずると引き摺ってきた毛布を羽織り膝ごと自分を抱きしめると、私は再生ボタンを押した。




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