showcase 023 3/5




 ――ああ、この歌だったのか。

 点滅をやめたオーディオが甘えた声で歌いだしたところで、流される前に流れていた歌を、私はようやく思い出した。
 確かこれは、彼がトレーの中に忘れたままのCDだ。
 曲調が好きだと思って繰り返し聞いた後でケースを探し当て、英語の歌詞の意味を知った歌。
 ピアノの白と黒に乗るセピア色の甘えた声に、感化される。
 彼から遠い場所で彼のことを夢に見る歌を聴きながら、私は歌の中の彼女の夢と同じように、「次は髪を撫でてくれないかな」なんて思った。
 そうやって歌に聴き入って――次第に歌詞にリンクしていく自分の想いに、気づかないふりをしようとした。
 歌の中の彼女の彼は、「大丈夫」だと繰り返す。
 がちゃんとドアノブを捻った彼は、時々、思い出したように私のことを名前で呼ぶ。
 普段は「お前」という記号のようなもので識別されているのに、こちらが意識などしていないふとした拍子に、
「るぅ」
 と。
 アルコールで、煙草で少し掠れた声が、私の名前を。

 その時の、その声の響きが。
 私は多分、とても好きなのだと。

 それを認めてしまえば、今までのように曖昧なままではいられないのだと…そう、気づいてしまったから。
 私は、歌詞にリンクしていく自分の想いに、気づかないふりをしようと、した。
 衝動ではない、ただ優しいだけの手に髪を撫でて欲しいなどと…大丈夫だと、腕をさすって欲しいなどと。
 私が曖昧であるように、彼も確かなことは口に出さないのに、いま以上、これ以上のことを――どうして望めるというのだろう。


 彼に酔う宵は、あっけないほど早く明ける。
 既に幾つ朝を迎えたかわからないくらいなのに、それはいつもあっけなかった。
 そして不思議なことに――明けても酔いが醒めることはなく、むしろ傍にいない時ほど私を強く繋ぐ気がした。
 私は床に座ったまま膝に額を寄せる。
 体は冷えてゆくのにどうして目頭だけが熱いのだろうと、曖昧な自分自身への問いかけばかりが頭をよぎった。
 纏った毛布からは、僅かに彼の煙草の匂いがする。
 ――思い出したい時に限って、彼の手がどうやって私を抱きしめていたのかが、思い出せない。
 そして私は、自分の部屋だというのにまるで取り残されたような気分になるのだ。
 彼の他に寄る辺がないような、そんな。

 ――此処は、あなたからとてもとても遠い世界。

 オーディオは、飽きることなく同じ歌ばかりを歌い続ける。
 壊れてしまったかのように繰り返す甘えた声が頭の中に反響して、私はまた考えることを放棄したくなった。
 どんなにか恥ずかしい行為をも最終的には受け入れてしまうのに、去り行く背中に取り縋る、それだけはどうしてもできない。
 衝動でのみ繋がれたふたりに、確かな約束など、望むべくもなく――
 望むことが彼を手放すことに繋がるのなら、私は――

 ――せめて夢の中でだけは、あなたが好きだと言えるだろうか。

 宵待草よろしく彼を待ってみる、そういう自分のいじらしさが、ちょっと好きだ。
 宵待草よろしく彼を待っている、そういう自分のいじらしさが、とても嫌いだ。

 長い間同じ格好でいたせいで、膝につけた頬が痛かった。
 もう少し肉をつけろと華奢な骨格の脚を撫でた、骨ばった手の気持ちが少しだけわかる。
 私は、あの手を失いたくない。
 だから…格好悪い女でい続けることに、抵抗なんてない。
 私はただ、私のために――あの手を、失いたくはないのだ。

 それはただ依存しているということではなく、幾つもの夜を経て、曖昧な私の意識がただひとつだけ認識した、私自身の意思だった。



 どう思ってみたところであっけなく朝はやってきて、私はまたいつものようにベッドからシーツを引き剥がす。
 私だって自立している大人なんだから、“ひとりで生きて行く”という選択肢だって、勿論あるはずだ。洗濯したばかりの白さを陽に晒せば、風が吹き抜けていくように心も洗われる気がした。
 オーディオの電源は落としてしまった。
 親友にさえ言えないような恋に溺れるセンチメンタルは、明けない夜の間だけでいい。
 そう思って、毛布の代わりにスーツを纏い、化粧で夜の名残を誤魔化して仕事へ向かう。
 きっと今日はいい天気になるだろうと、昨日の雨雲を流していく風に髪をなびかせながら。




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