showcase 023 5/5




「…俺、帰るわ」
「ん」

 私ひとりの意識が変わったところで、いつもの遣り取りは何ら変わることがなかった。
 彼はひとりで服を着なおし、屈んで上着を拾い、私はただ一言だけを返す。
 そしてまたいつものように彼がベッドに片膝を乗せ――その僅かな傾きで、放置されたままだった枕元のリモコンがごとりと床に落ちた。
 はずみでオーディオの電源が入り、小さな部屋にはまたあの歌が流れ出す。
 ――彼が帰ったら、今夜はこっそり泣こう。
 今夜ばかりは、いつもの仕草にこっそり笑うなんて、できそうにない。
 簡易照明のない部屋の、カーテンから透ける灯りだけの薄暗さが表情を隠してくれる。それが唯一、救いだと思った。
「…やっぱり止めた」
 触れる寸前の唇が小さく呟いて、頬に生温かい吐息を感じる。
 そしてそのまま彼の顔が離れて行き――ぎしり、とまたベッドが鳴った。

 止めたというのは――絵空事のようなこの恋を終わらせるという、そういうことだろうか。

「なあ、お前――束縛されてみる?」
 私の顔の横に腰を下ろして、彼が言った。
 思いがけないことを言われた時、人はそれを音として認識することはできても、その意味を理解するのには時間がかかるものだ。
 私には、彼が何を言っているのか理解できなかった。
「指輪、買ってやろうか」
 ここに。
 そう言って痩せた指が私の手を掴み、唇を指に押し当ててくる。
「俺、夜目利くんだよね」
 夜目の利かない私は、自分に触れている唇が歪んだのは分かっても、それが笑みによるものだとは分からない。
 ただ彼の声が、笑いを含んでいて――
 もう片方の手が、枕に散る乱れた私の髪を、撫でた。

「お前はどう思ってるか知らないけど、俺は好きだよ」

 オーディオが甘えた声で歌い続ける。
『夢の中であなたは私の髪を撫でて、「大丈夫」だと言う』
 確かな熱が此処にあるから、これは夢ではないのだろう。
 理解できずに訊き返す程、私はそこまで馬鹿じゃない。
 ――俺は好きだよ。
 彼の声には言霊でも宿っているのだろうか。
 誰を、とか何を、とかいう注釈はなかったけれど、その一言で、力んでいたものが可笑しなくらい簡単に消えてしまった。
 そうしたら嬉しさよりも悔しさの勝る涙がこみ上げてきてどうしようもなかったのだけれど、私は臆せずに彼を睨む。
 これは軽くなった分だけ流さなければならないものだろうから、濡れる頬をそのままに、彼を睨む。
 ――俺は好きだよ。
 今、私はきっと酷い顔をしているだろう。夜目の利く彼には全て見えてしまっているのだろう。
 けれどそういうのはもうどうでもよかった。虚飾ではなくありのままでその声に呼応する私の偽らざる本心を、ただ彼に伝えようと思った。
 だから起き上がって、同じ目線で、夜目の利かない私にも見える距離で、彼に告げる。
「そういうことはもっと早く言いなさいよ、馬鹿」
 罵ってはみたけれど、彼もそうそう馬鹿ではない。私の初めての、その割にちっぽけな反抗を、ちゃんと理解したはずだ。
 その証拠に、彼は満足そうに唇を歪めて、そこに痕でも残そうとするかのように私の指を強く噛んだ。


 痺れるような痛みの余韻は、むしろ甘さを伴っていることだろう。
 私は、それを喜んで受け入れる。
 これから先、ひとりで何処を歩いたとしても、彼を見失わないための道標がこの指に宿るのだから。
 私を抱きしめて「るぅ」と呼ぶ声は、耳元で歌うように、楽しそうに、何度もその音だけを繰り返した。

 名前を呼んで言霊で私を捕らえる――少し卑怯な彼のもとへと帰るための道標は、月の光を映したような柔らかな色をしていた。


 -fin-


reproduced 【CENTURY】
special thanks for RouRou

image song : BONNIE PINK 『Quiet Life』




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