showcase 024 2/5
『水仙』
もうすぐ明ける頃だというのに未だ暗い街は昨日の昼からの雨に沈み、映画のスクリーンの中のような非現実な空間を思わせる。
ヘッドライトに照らされた雨粒はまるで、光の乱舞。
地面に落ちた雫は人工的な傾斜に沿い、降る途中で拾い集めた街中の煩雑さと一緒に側溝へ流れていく。
夜に降る雨は、嫌いじゃない。
どんなに寒い夜でも、どんなに冷たい夜でも、街灯に照らされて降る雨にはどこか温かさを感じる。
それが目の錯覚だとはわかっている。
けれど、まがい物だとわかっていても、その温かさに少しだけ救われた気になる夜があるんだ。
その温かさに少しだけほっとするような夜が、あるんだ。
だから俺は、夜に降る雨は嫌いじゃない。
人の気配がほとんどない街を走り抜けると、足回りがいつもと違うさらさらという音を出す。
気がつけば、途中の自動販売機で缶コーヒーを買うのが習慣化してしまっていた。
後部座席に傘を置いていた気もするが、俺は構わずに外に出た。短い距離だ。髪と上着が濡れるのなんて気にしない。
小銭が吸い込まれていく音を聞きながら、この赤い箱の持ち主に一体いくら払ったことになるんだろうかと埒もないことを考えていたら、朝方だというのに「お疲れさまでした」と返してくるのに危うく会釈をしそうになる。
俺はひとりで苦笑した。
雨はさらさらと降り続ける。
通い慣れた部屋への階段を1段上るたびに濡れた靴底が鳴り、ポケットの中のキーケースがちゃりちゃりと音を立てる。
思えば、俺は夜と呼ばれる時間帯にばかりこの鍵を使っている。それはまるで、取り替えられたばかりの誘蛾灯の、真新しい光に惹かれる虫のように。
――其処には確かに、俺の気を惹いてやまないものがあった。
雨はさらさらと降り続け、薄汚れた手すりの上で小さなクラウンになっては消える。
空が流す涙は、夜の間に全てを洗い流して、あたらしい朝を迎えるための儀式のようなものだろうか。
角の部屋に近づくほど穏やかに凪ぐ心に、ふいに訪れる既視感。
――そう言えば、初めての夜も今日のような雨だった。
今日のような、まっさらな場所へと心が還るような雨だった。
なぁ、るぅ。
お前は憶えているだろうか。
あの雨の夜、雫を受け止めたお前の指が、俺を繋いだ瞬間を。
濡れはじめのアスファルトは独特の臭いがする。
街灯から離れた場所では、いつもよりも余計に黒く沈もうとする夜に抗う術はない。俺は降り出した雨から逃れるように足早に角を曲がると、その店のドアを開けた。
近頃開拓した中でも、特に気に入った店だ。
目立たない路地にある小さなそこは、落ち着いたと言うよりも少し寂れた感がかえって粋な佇まいで、物思いに沈むには格好の場所だった。
なかなか自分のためだけの時間が取れない時に此処に来て、寂れた店のより一層寂れた角の席で俺はグラスを1杯だけ空ける。
酒の肴は洩れ聞こえる隣の席の会話だったり、壁に飾られた外国の古いポストカードの中で笑い合う恋人たちだったりだとかで、特筆すべきところはない。ただなんでもなく過ごす時間の贅沢さを味わう、それだけだ。
煩雑さを忘れてゆっくりと過ごそうと思っていたのに、今夜はいつものようにはいかないようだった。背中でドアが閉まる音に重なった雨音は、これから本格的に降る様相で、どうやら俺を此処に足止めするつもりらしい。
…まあいい。どうせ明日は休みだ。
こちらの顔を覚えた店員が狭いフロアのテーブルを拭きながら声をかけてくるのに会釈を返して、俺は店内を見回した。
今夜は長くなりそうだと、ぼんやりと酒の肴を探す俺の目の端に、カウンターの角で頬杖をつく女が映った。
どうやら、俺の他に客といえば彼女だけのようだ。
見たことのある女は、マニキュアを綺麗に塗った指で、グラスの氷をカラリと鳴らした。
「…どうも」
「…こんばんは」
彼女は此処の常連客というやつだろう。
初めて声を交わすのに臆すでもなく返事する姿には、余裕さえ感じられた。
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