showcase 028 1/2




『timeserver』


 地平線から少し視線を上げると、オレンジと紫が染め上げた雲と目が合う。
 あまり長く見つめ合っていられない、束の間の時間。
 眩しく移ろう景色は、直視できなくて視界の端にとらえた斜陽の魔法だろうか。
 ――海の向こうのとても遠いところに沈む前に、空の主導権を月に渡してしまう前に、見ている者の心を悪戯に惑わせようとする太陽の魔法。
 防波堤によじ登り腰かけた僕を、斜陽は容赦のない光で色とりどりに染め上げ、そして一呼吸の間に海の向こうに消えた。
 何度瞬いてもまぶたに焼きついて消えないその光は――まるで君のようだ。

 例えば、無意識に人を避けてしまう余裕のない夜に。
 例えば、無意識に人を求めてしまう余裕のない夜に。
 どちらでも不思議と思い出される――惹かれてやまない、その光。


 そよぐ風はもう随分と温かくなり、日が落ちた後も気持ちよく頬を撫でて行く。
 期せずして得られた時間を満喫して、僕は防波堤の上から飛び降りた。
 ――此処には誰も居ない。
 遠くの街で、もう街灯は灯り始めたことだろう。
 人影のないこの場所では足元を照らすための設備は用意されておらず、僅かに明かりを残した時間に、波音に混じるのは僕が砂利を踏みしめる音だけだ。
 多分、僕は此処から何処へでも行けるだろう。何処へでも還れるだろう。
 それは手段の問題ではなく心の問題で、いま僕が自由であることを示している。
 けれど僕は――自分が奏でる足音に独りであることを喜ぶ反面、独りであることに寂しさを感じ始めていた。
 日常から自分を切り離してみて、初めてそれに依存していたことを知る――僕の状況は今まさにそれだった。

 ああなんて、人間というのは我が儘な生き物なのだろう。
 不満ばかりが目に見えて、本当の満足なんて…。

 此処からどれぐらい歩いたら、タクシーを拾えるような道に出るだろうか。少なくとも近くに公共交通機関なんていう便利なものは通っていなかったはずだ。
 携帯電話と財布をポケットにしまったままだったのは、幸運と呼べるかもしれない。
 半日以上手に触れずにいた無機質なそれは震えることも音をたてることもなかったけれど、僕と日常を繋ぐ確かなアイテムであることに変わりはなかった。
 電話帳には君の名前があるし、データボックスにも君の横顔がある。
 その写真を撮ったのはいつだかの海で、水面の煌きに目を奪われた君に、僕が目を奪われた一瞬だった。
 随分懐かしいその日の記憶は、携帯電話を新しくする度に何度も保存し直されていて、その所為で解像度も随分荒い。
 褪せるようで褪せることのない記憶は、感情を同じくして今尚続いている。
 其処に理屈はない。だから御せない。
 時に君を、そして自分をも傷つけてしまう想いは、それでも僕にはとても大切なものだった。

 愛しく想い合うのは互いのあるべき姿のようで、でも本当はそれだけじゃない。
 愛しく想えばこそ、迎合するでもなく反発するでもなく――その存在に、なぜだかどうしようもなく苛つく時がある。

 韻を踏むように続く足音が、暗闇に呑まれようとしている。
 此処から僕は何処へ行こうか。何処へ還ろうか。
 多分いま僕は自由で、自由だからこそ――


「遅い!」


 物思いに沈んだ心は、投げかけられた声と闇に差し込んだ一筋の光に、一瞬にして引き上げられる。
 僕はその眩しさに目を細めて、光源が1台の車なのだと気づいた。それからその傍に、強い声の、あまり大きくはない影。
 僕がとてもよく知る、その影。
 ――ああまた君はそうやって、とても簡単に僕の胸を射抜くんだね。

「ほらっ」

 人影から投げ放たれた物体は、綺麗な放物線を描いて僕の手の中にぽすんと納まった。
 適度な重みと硬さのそれは、飲みかけのペットボトル。
 そういえば喉が渇いていたなと思い出して、僕は半分残ったぬるいミネラルウォーターを飲み干した。
『全部欲しいよ、僕は』
 潤う体に、数時間前の僕の台詞がよみがえる。

 その言葉で、ただ単純に恋人を所有しようとしたわけじゃない。最早言い訳にしか聞こえないだろうけど、僕はただ君の存在に潤いを求めただけだった。
 “全部”だなんていうのは貪欲だと、わかってはいた。傲慢だと言われても仕方ないのだとわかってもいた。
 けれど感情を理性で完全に押し殺すことはできない。それが人間の業というものだろう。
 数日ぶりに逢えた君を、僕は完全に自分だけのものにしてしまいたかった。君の日常を否定して、自分勝手に独占しようとした。
 そんな僕を睨みつけて、互いに頭を冷やそうという名目で予定外の別れを切り出した――君の声の強さはまだ耳に残っている。
 足りない言葉を補う余裕さえなく、急ブレーキで停止した何処とも知れない場所で、僕は車外に押し出された。

 むせる程の潮の香りに攫われて行くのは僕ではなく、小さくなる君の車。
 置き去りにされた僕は、潤うどころか乾いてゆくだけの引き潮の砂の浜。

 長いようで短い時の移ろいの中で見つけたものは、見失っていたのが嘘のようなとても簡単なものだった。
 ――だから、全部じゃなくていい。全部僕のものじゃなくていい。
 だけど、少しは僕のものだと自惚れさせて。




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