showcase 029 1/3
『hello mellow』
「降ってきたね」
マスターがそう呟く声で、私は開いていた頁から視線を上げた。
外はいつの間にか暗くなっていて、窓の遠い私の居場所からは窺い知れない。
1日中ずっと湿度が高かったせいか、アスファルト特有の嫌な臭いは店内までは流れてこない。けれど行き交う車の音は、サーッという独特のそれに変化していた。
週の真ん中の夕方、私はいつものように4人掛けの席をひとりで占領して、食べかけのフレンチトーストが乗ったプレートを向かいの席に押しやった状態で、買ったばかりの本を読みふけっている。
いわゆる“読書の秋”というやつだ。
もっとも、年中本ばかり読んでいる私には、季節感などあまり関係ないと言えた。私にとって本はそこにあって然るべきものであり、それからその脇に美味しい珈琲があることもまた然り、というもので。
そして美味しい珈琲は、この店とともにある。
「そろそろ食後の珈琲をお出ししても宜しい?」
「あ、…はい」
私は本に栞を挟み、ほとんど冷めてしまったトーストを手元に引き寄せる。
添えられたサラダのレタスは、何度そう訴えても一口には入りきらない大きさで、また今日もドレッシングが唇の端を汚す。
紙ナプキンに手を伸ばしたその下で、僅かに檸檬が香る冷たいグラスから汗が滴り、コースターに書かれた【RHAPSODY】の文字が滲んだ。
【RHAPSODY】というのはこの店の名前だ。
“嗜好品としてではなく思考品としての珈琲を”と謳うカフェだけあって、此処に集う常連客は、皆一様に長時間居座る癖があった。
近頃増えだした機能的なそれではない、ノスタルジックな内装。ボリュームを落としたBGMに、薫り高い珈琲。それから居心地のよい沈黙とが混在するこの店は、表通りに面しているにも係わらず、一種隠れ家的な雰囲気で物思いを誘う。
珍しいことに今日の常連客は私ひとりだけのようで、それがいつもよりもいくらか沈黙の温度を低く感じさせていた。
――雨の夕方ということもあって、今日はもう新たなお客がやって来ることもないだろう。
私はのんびりとトーストを食みつつ、また頁を捲る。
店の周年祝いの記念にと貰った柔らかな皮のブックカバーは、随分手に馴染んでいる。
ところどころ褪せたその臙脂は、店のメインカラーを配した椅子のクッションとよく似た色になりつつあった。
此処の名物であるオリジナルブレンドは、日によって味が変化する。
いつも僅かにニュアンスの異なる味に、常連は「焙煎に失敗したんじゃないの」などと言って笑うのだが、その度にマスターは「ウチの珈琲は“恋の味”がするように淹れてるから」などと嘯いて笑った。
「だから飽きないし、味わい深いだろう?」
そう言ってにやりと歪む唇が今もなお忘れられない恋を想い続けているというのは、常連ならば誰もが知っている有名な話だ。
憎らしいほど粋なマスターもまた、この店の名物として皆に愛されていた。
「近頃なんだか元気がないようだけど」
そう言ってマスターは私の前に熱い珈琲カップを置いた。
「誰が? 私?」
「あんまり笑わなくなった気がするんだけどね」
今日の珈琲は、深煎りしたような、なんだか苦味のありそうな、そんな薫りがする。
無理は身体によくないよ、とマスターは言い、置きっぱなしで中身の減ったシュガーポットを、手際よく取り替えていった。
「…ひとりで来てひとりで笑ってるのって、気持ち悪いと思うんだけど」
「まぁ、それはそうだけどさ」
珈琲のオマケについてきたチョコレートの欠片を摘んで、私は背の高いマスターを見上げた。
「“ポーカーフェイスは大人のたしなみ”だって、マスターが教えてくれたんじゃない」
そんな私を「一丁前に言うようになったねぇ?」とマスターは笑い、カウンターの向こうへと戻って行った。
近頃ブラックで飲むようになった珈琲は、案の定苦味が少し尖っていて、本当に焙煎に失敗したんじゃないかと思えるほど味のバランスがよくない。
いや、先にチョコレートを食べてしまったのが悪かったのかもしれない。
…いや、もしかしたら、いつもは付かないチョコレートの理由は、この味のせいかもしれない。
本当に焙煎に失敗したんじゃないでしょうね。
ひとくち飲んで仏頂面の私の口元で、カップに付きにくいと噂の口紅が、熱い液体の上に薄い油膜として広がる。
「マスター、これ苦い」
「苦いのも恋の味わい、ってね」
君がそんな顔してるから、そういう味になっちゃったんだよ。
そんな顔ってどんな顔よ、と私はカップの中を覗きこむ。けれど照明の落ち着いた店内では、珈琲を水鏡のようにするわけにはいかない。
マスターはお客をよく見ていて、普段は何も言わないくせに、煮詰まっているところにそっと的確なアドバイスをくれたりする。
人をからかうことはあっても、嘘は言わない。
だから、これが今の私の恋の味だと言うなら――鍛えはじめたポーカーフェイスを保てないほどに、元気がないということのだろう。
4人掛けの席に私ひとりという不自然さを、何をするでもなく黙認してくれている――彼のその優しさこそが、この店のあたたかさに繋がっていく。
そして私はまた、この店のことが好きになるのだ。
あの人に「しばらく距離を置こうか」と言われてから、どれくらいの時間が経ったのだろうか。
ふたくち目もやっぱり苦い珈琲のカップが、手の中で熱い湯気を立てる。
ポーカーフェイスの練習をし始めてからというもの、斜め前の空席に、だいぶ慣れてしまった私がいた。
――そう、私の恋は今、苦味だけが尖っている。
スイングするような会話を楽しめる相手というのは探せば結構いるものだけど、
その上で沈黙も共有できる相手というのは、意外に少ない。
得てして気まずくなりがちなそれを、愛しく感じさせることができる人というのは、本当に少ないのだ。
きっと、偶然では巡り会えない。
けれど私はこの店で、あの人に出会ってしまった。
――そして。
そのとてもとても居心地のよい関係に別の感情を持ち込んで、
お互いに身動きが取れない状態にしてしまったのは――
経験不足で、まだまだ精神的に子どもな、私の方だった。
糸電話のあちらとこちらのように、張り詰めていなければ通じ合わない――それが恋だと、思っていたから。
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