showcase 029 2/3




 出した食事が冷えようとも文句も言わないマスターも、こと珈琲に関しては口煩い。
 それはそれは、「小舅がいる…」と言いたくなるほど口煩い。
 飲み干してなお熱いカップをソーサーに戻して、私はいつものように化粧室へ行く。
 胎内のように安心するこの店から外の通りへ戻るには、お化粧という戦闘服をそれなりに直す必要があった。
 …けれど。
「マスター。化粧室の電球、切れそうよ?」
 チカチカ瞬く灯りの下では、鏡に向かう手が心もとない。
「ああ、…今はほら、焙煎中で手が離せないんだよねぇ」
 その最中の独特に煙るカウンターの向こう側で、「電器屋なら3軒隣だから」とマスターはにやりと笑った。
「…またですか」
「んー」
「だから仕入れと同じで買い置きしとかなきゃって言ってるのに」
「ごめんねぇ?」
 私は会計を済ませるためではなく財布を手に取って、「これだから学習能力のない人は」と毒づく。
 聞こえているのか聞こえていないのか、いやきっと聞こえていないふりをして、マスターは「領収書もらってきてねー」と間延びした声で伝えてよこした。
 電器屋さんは3軒隣だ。
 初めてこの店を訪れた時にお冷を出してくれた店員さんが実は店員ではなく常連さんであったように、あの電器屋さんのお兄さんも、私のことをこのカフェの店員だと思っているに違いない。
 雨足は思ったよりも強くなかったけれど、私は妙な確信をしながら傘を開いた。
 電器屋さんの閉店まではあと30分。
 自分の部屋の電球の品番も知らないのに、行きつけの店の電球の品番を知っているだなんて、しかもそれを補充し慣れているだなんて、本当におかしな話だ。
 俯いて苦笑をこぼした視線の先、アスファルトで撥ねた雨粒を弾いて、電飾に照らされた靴先がきらめく。



 あの人に「距離を置こうか」と言われた時、それがまるで「別れよう」と同義であるかのように聞こえたのが、とても、とても悲しかった。
「言葉が尽きれば気持ちを繋げる理由もなくなる」と、別の人にそう言われたことを、私はまた思い出してしまっていた。
 それまでとても居心地がいいと思っていた沈黙は、感情が絡んだとたんに、安らぎとは似つきもしないものへ変貌する。

 互いに引き合って、そうして張り詰めた糸でなければ、感情の音は通じ合わない。
 ただそばに寄りそうだけでは続かない。
 ――それが、恋というものだと思っていた。



 電器屋さんは気の早いことに、もう店じまいの準備を始めていた。
 店内に仕舞いこまれた小さな看板の隙間をぬって、私は慣れた足取りでお店の奥の棚へと向かう。
 目的の品は棚の左上から3番目、青と白のパッケージ。灯りの色は、眩しく感じない黄味がかった方。
「…あった。コレ」
 つい独り言を言いながらてのひらサイズのそれを掴むと、レジの方向から来た人が不審げに「ん?」と私を見た。

「「…あ」」

 どちらが先に発したかわからない声が、売り場の前でユニゾンする。
 偶然と言っていいものだかよくわからない偶然を前に、私は一瞬、下がり眉で途方に暮れたような顔をしたのだろう。
 ――それに苦笑をこぼしたのは、紛れもなくあの人だった。
 私が緊張を強いてしまい、その挙げ句に「しばらく距離を置こうか」と言わせてしまった、あの人だった。
「またかい」
 そう言って、あの人は私の手元を見て笑う。
「…マスター、全然懲りてないみたい」
 そう答える私の声は、どうしてだか溜め息のように頼りない。

 久しぶりに見る目じりのその皺が、なんだかとても懐かしい気がするのはどうしてだろう。
 自然と温かいものが溢れてくる胸のうちが、変わらないあの人の声に震える。
 あの人の手には、このお店のロゴの入ったビニール袋がぶら下がっていた。
「何か買ったの?」
 そう訊いた私に向かってあの人は意味ありげに笑い、「お土産にと思って」と言って袋の口を開ける。
 そこには、私の手の中にあるものと同じ品番の電球が、ふたつ入っていた。
「難しく考えこまなくても通じるものが、そこにはあると思うんだよね」
 あの人は優しい目で笑う。
 ――そう言えば私は前にも、そんなことを言われていた。
「しばらく距離を置こうか」と、そう言われる少し前に。



 そんなに難しく考え込まないで。
 考えすぎて前に進めなくなってるの、わかるでしょ。
 居心地がいいとか安心するとか、そういうのだけ分かればいいから、
 背伸びしないで、ありのままの君でいて。
 いつものカフェにいるときみたいに、会話なんてなくてもいいから。
 ただ抱きしめ合って眠ったりとか、そういう恋が、できるはずだから。




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