showcase 029 3/3
あの人は私の手から電球を受け取り、それをぽんっと棚に戻した。
「さて帰るか」
「あ、…うん」
「お使いはこれで終わりだよな?」
「うん」
電球を持っていた手が、あの人に触れてもいないのに温かく感じるのはどうしてだろう。
先を歩く背中の、上着の肩が少し濡れているのを見ながら、私はそんなことを考える。
前よりも強く愛しさを感じているのは、手を伸ばせばすぐに届く距離にあの人がいるからだろうか?
「傘持ってきただろ、入れて」
「…降ってるのわかってて、持ってこなかったの?」
「今日は車で来たから」
3軒隣のカフェまでは、走ってしまえばあっという間だ。
でもあの人は傘立てから私の傘を迷わずに選び取って、もう片方の手で私を引っ張った。
「気負わなくても、ちゃんと繋がってたろ?」
ぴんと張りつめていなくたって、心はちゃんと、君の声で震えるから。
だから大丈夫だよ。
そう言うあの人のてのひらは、重ねた私の手よりも大きくて、それからとても温かい。
――だから大丈夫、というその声に、とたんに素直になった私の心が呼応する。
頼りない溜め息を拾うその大きなてのひらは、絡んでもつれた私をいとも簡単に解きほぐした。
「…ん」
頷く私を開いた傘で隠して、一瞬だけ、あの人の唇が私の唇に触れた。
「「ただいまー」」
からんころんと鳴ったドアベルは、いくらか湿気が混じってこもった音がした。
「おや、ふたりしておかえりー?」
マスターはあの人を見て、それだけ言って目じりを下げる。
焙煎はちょうど今終わったところのようで、最後の煙が天井に霞んで消えた。
「ハイこれ、お土産。節電しろって言ってるのに、いつも点けっぱなしにしてるからすぐ切れるんだよ」
「いやぁ、いつも助かるね。ついでに取り替えてきてくれるともっと有難いんだけどねぇ?」
1度はカウンターの上に置かれたビニール袋が、またあの人の手の中に戻る。
「…あのさ、1回訊いてやろうと思ってたんだけど、誰のおかげで儲かってると思ってるの」
「それはひとえにウチの珈琲が美味いからでしょう。暫くご無沙汰だった人が何言ってるんだか?」
あっけらかんと言うマスターをあの人は「まったく憎たらしい人だ」と笑い、私はそんなふたりを見て笑った。
私よりもずっと前からの常連とマスターとの会話は、スイングするようでとても小気味いい。
乞われるままに電球を替えてきたあの人は、「いつもの」と言って、オリジナルブレンドを注文する。
私は「おなじの」と言って、オジリナルブレンドを注文する。
当たり前のようにあの人は私の斜め前に腰掛けて、その長い足を組んだ。
マスターはカウンターの向こうで、なんだかとても楽しそうに、ふたり分の豆を挽きはじめた。
「最近なにか面白い本あった?」
私は鞄を開け、借りっぱなしだったCDと一緒にあの人に文庫本を渡した。
いつ会えるともわからないのに、いつでも鞄の中に忍ばせていたその重みが、ようやくあの人のてのひらの中。
私の想いも、ようやくあの人の腕の中。
「じゃあ代わりにコレあげる」
あの人も待ち構えていたように私に文庫本とCDを渡してくる。こちらは私が貸していた本と、私が借りるCDだ。
「帰りは送るから。…それともウチに来る?」
「うん、行きたい」
ほわりと笑ったあの人はそのまま本の頁を捲り、私はCDのジャケットを捲った。
外の雨は夜を冷たく呼び始めたけれど、店内はやがて淹れ立ての珈琲の薫りに満たされて、私たちを柔らかく包む。
タイミングよく流れはじめたルーサー・バンドルスの『KILLNG ME SOFTLY』が、まるで眠りにつく前のような穏やかさを運んでくる。
それは久しぶりに感じる安堵で、私はほぅっとひとつ、溜息をついた。
沈黙まで共有できる、そんな居心地のいい距離に座っていて欲しいのは、あの人をおいて他にはいない。
「なんだか恋の薫りがするね?」
私の前にカップを置きながら、マスターがいつもの憎めない顔でにやにやと笑った。
あの人も、私を見てにやりと笑う。
スプーンに触れてカチャリと音を立てたカップの脇、クリーム色のソーサーの上には、さっきと同じでチョコレートが添えてある。
「まだ修業が足りないよ」とでも言いたげなその口調に、私は緩んでいた口元を少し引き締めて、今日2杯目のその珈琲にミルクとブランウンシュガーを溶かした。
あの人と私、斜め向かいのいつもの席で、いつもの珈琲。お互いに黙っていても、心を繋いだ糸は震えているまま。
澄まして口をつけた珈琲は、円やかな恋の味わいがする。
-fin-
[creator's theme : いと]
10sites joint project 『君を恋ひぬ日ぞなき』
deviser ヒロコ@【五鍵】
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