showcase 030 1/1
『Heaven's Kitchen』
「ただいまー」
「んー」
玄関を開けたらとてもいい匂いで、多分今夜はお得意のホワイトシチューなんだろうと、俺は容易に想像できた。
その間延びした返事は、換気扇の回る音にかき消されそうに小さかった。
「んー」って、ひょっとして「おかえり」代わりじゃなくて、味見で首を傾げてるだけだったかも、なんて思っちゃうくらい小さかった。
脱いだコートをソファーの背もたれに置いて、テーブルの上の俺宛ての郵便物をチェックする。
そんな俺の足音に、彼女は振り向かない。
俺の存在はその心の中で随分落ち着いてしまったのか、近頃は何を言っても何をやっても、彼女はほとんど動じない。
――ちょっと、さみしい。
だから俺はわざとドタドタとカウンターを避け、彼女のすぐ後ろから声をかけた。
「シチューはキャベツたっぷりで甘いのがいいな、俺は」
彼女の肩越しにぐるぐる回るおたまをその手ごと掴まえて、鍋の中でふつふつしているそれを、もったりと掬いあげる。
「キャベツー。キャベツないとやだー甘くないとやだー」
「入ってるじゃない、山盛りで。シチューと言うより寧ろキャベツのホワイトソース煮な勢いで」
「キャベツがないとシチューじゃない」
「…変なところでこだわるんだから」
とがらせてるその唇、舐めたら甘い味がしそう。
そんなことを思ってたら、「私のこだわりは…まぁ、アレよ」なんて彼女が言い出した。
「なによ?」
「あなたがいないと生きていけない」
「…なんて殺し文句」
ただよってくる甘い香りは、鍋からなのか、それとも彼女からか。
どうしよう、今日のシチューは甘すぎて俺死にそう。今ちょっと天国見えたかも。
「だってホラ、……一家の大黒柱じゃない」
だから頑張って稼いできてね?
って、振り向いた彼女が言った。
え?
なにその笑顔の切り返し。
ぱたぱた舞い上がってた俺は……今ちょっと墜落したかも。あ、なんだか胸が痛い…。
「ああ、そういうこと…」
あらそう……
しょんぼりした俺を軽くあしらって、彼女はシチューを皿によそいはじめた。
俺今日は小食かもよ、なんて彼女の背中に呟いてみる自分が、切ない。
でも聞いてるのか聞いてないのか、彼女は大盛りにしたシチューをテーブルに置いた。
甘い香りは腕の中から移動して、テーブルの脇。
「なにしてんの、シチュー冷めるよ」
「今行きます…」
「ご飯食べないと元気出ないでしょ」
「ハイ…ソウデスネ…いただきます…」
「んー」
彼女はさっきと変わらない、間延びした声を寄越した。
ご飯食べたら確かに元気は出るだろうけど、俺の胸の痛みはご飯じゃ治らないと思う…。
そう訴えようとして彼女を見つめるけれど、シチューをふぅふぅ冷ましている口元は、スプーンに隠れていて見えない。
……あ。
「…なに見てるの」
「なんでもありません」
「…なに笑ってるの」
「なんでもありません」
でも、俺の耳は「いなくなったら泣くからね」とスプーンで隠して呟いた、彼女の小さな声をちゃんと拾い上げていた。
…やばい、今日のシチューは甘すぎて天国が見える。
-fin-
≪ showcase
≪ menu
≪ home