showcase 032 1/6
BGM#01
珈琲を出すと、彼は目元を緩ませて会釈を返してきた。
この店から歩いていける距離に海はないのに、不思議なことに、彼のテーブルからはかすかに潮の香りがする。
「眩しくないですか」
この季節、向かいのビルに反射した夕陽でオレンジに染まる一角は、店でも特に人気の場所だ。
けれど、時間によっては眩しすぎて外が直視できないこともあり、待ち合わせの客には敬遠されることが多い。
彼はいつものようにそこに座り、眩しそうに目を細めながらも静かに「いいえ」と首を振った。
「何かあったら呼んでくださいね」
私はそう告げて伏せた伝票をテーブルの端に置き、カウンターの中へ下がる。
彼はカップに1度口をつけると、ジャケットのポケットから携帯電話を取り出して、てのひらで温めながら、ずいぶん長いことそれを眺めていた。
「…あの、」
私は彼に乞われて2杯目の珈琲にシナモンスティックを添えた。
彼の携帯電話はテーブルの上に置かれている。
斜陽を映し、時折海のように揺れる目を、気付かないふりの愛想笑いで、私はまたカウンターの中へ下がる。
ほどなくして陽は沈み、私はそれに合わせてBGMの音量を少し絞った。
オレンジ色の間接照明は、店内に視覚的な暖を演出する。
仄暗さの中で彼は外の景色を遠く眺め、時々通る車のライトを目で追っていた。
カウンターではなくテーブル席に座る客に、私はなるべく声をかけないことにしている。
彼の心にどんな想いが寄せて返しているのか、それを知るべきは私ではなく――彼が待つ、他の誰かの役目だろう。
カフェはただ、緩やかに過ぎる時間を提供するだけでいい。
私はレシピノートを取り出して、表面のクリームに波紋をつけた、シナモン風味のケーキを描いた。
次に彼が店を訪れた時には、新作をご馳走しよう。
できればテーブルにはケーキの皿を2つ置きたい。
はちみつを入れてしっとりと焼き上げたスポンジになら、彼の――それから彼女のテーブルに、優しい時間が積もるだろうか。
「!」
外を眺める彼の席で、ありきたりな着信音が鳴った。
携帯電話を握りしめて慌てて席を立ち、恐縮した体でこちらを見る彼に、私はにっこりと笑い返す。
電話に出るために足早に階段を降りて行く、彼の目元が少し緩んでいた。
――彼の海はもうすぐ満ちるのだろう。
私は自分用のカップに唇を当て、その姿勢のままでほっと息を吐いた。
彼がテーブルに戻ってきたら、BGMは女性ヴォーカルの曲に変えてみようか。
今夜はきっと、その方が甘く更ける。
「…じゃあ、あとで」
通話は手短に済んだらしい。
階段を上る軽い足音を、私はいつもの顔で迎える。
――向かいの席をあたためてくれるはずの人に、早く逢えるといい。
戻ってきた彼の目元は、柔らかく緩んでいた。
BGM : Keri Noble 『LOOK AT ME』
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