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BGM#02


 階段を上がってくる足音はふたつ。
 今日の彼女は、1階にある雑貨屋の紙袋を下げている。

「グァテマラでいいですか」
 ふたりがまだ陽の傾かない窓際で夕暮れを待つようになったのは、ごく最近のことだった。
 彼女のお気に入りは店自慢のスペシャルなグァテマラで、カップを抱えた頬が満足そうに緩むのを見るのを、私は密かに楽しみにしている。
 彼女は今日もやはりグァテマラをオーダーし、向かいに腰を下ろした彼は、暫しメニューを睨んだ末に「おすすめで」と言った。

 店には週変わりで“マスターのおすすめ”なるメニューを出すようにしている。
 それは選択回避の法則に則った――つまりメニューをなかなか選べないお客の、ぐるぐる入り組んだ思考回路を、やんわりと停止させるための選択肢。
 珈琲1杯の時間だけでも、あなたにささやかなリラックスを。
 どんなお客さまにも満足していただけるようなおいしいものを提供できるのが、マスターたる身の苦労であり、これ以上ない楽しみでもある。
 淹れたての珈琲をトレイに乗せ、いつもより少しだけ大きな靴音で、私はそのテーブルに向かった。

「お待たせしました」
 私はいつも、彼女のカップから先にテーブルに乗せる。
 試作品の焼き菓子なんかをおまけにつけるのも忘れない。
 彼女は笑って、それを当たり前のように受け取り、柔らかな色をした指輪をはめた手で、テーブルの真ん中に皿を置き直すのだった。

「…で、今日のおすすめって?」

 彼の声が不機嫌そうに聞こえるのは、いつものことだ。
 BGMが丁度いいタイミングでルーサーを流し始めたので、私はにやにやと笑いながら「ネスカフェ〜エクセラ〜♪」と歌ってやった。

「インスタントか!?」
「…そんなわけないでしょ」

 呆れたように彼女が呟き、カップに鼻を寄せた彼は「なんだ、グァテマラか」と言った。
 どうやら、彼女の好きな珈琲を嗅ぎ分けられるようにはなったらしい。
 私がわざとらしく「ふん」と鼻で哂うと、彼は苦虫を噛んだような顔でカップに口をつけた。
 自分の知らないうちにいつの間にかマスターと仲良くなっている彼女のことが、彼はちょっと気に食わないらしい。
 それはとてもつまらない、とてもつまらない小さな嫉妬で、だからこそ好ましいと私は思っている。
 ――私と彼女がご近所さんであることを、彼はまだ知らないらしい。
 私はそれを知っているから、彼女を贔屓してみせる。
 黙っている彼女も、彼のつまらない嫉妬を好ましいと思っているのを知っているから、私はことさら、彼女の方を贔屓してみせるのだった。

 やがて陽は傾きはじめ、ふたりのテーブルがオレンジに染まる。
 BGMはよく心得たもので、『Our Song』に変わっている。
 The moment we shere shines blight.
 この季節、向かいのビルに反射した夕陽でオレンジに染まる一角は、店でも特に人気の場所だが、私は、カウンターの中から見てこそ、一番美しいものだと思っている。
 そこに座る客のシルエットはとても眩しくて――すべて報われるような気がするのだ。
 そんな私の耳に、「あのオンナ性格悪いよな」とこっそり呟いた、彼の声が聞こえてきた。

 ……。

 今度、この時間帯にふたりが訪れた時には、彼の分にはクリームではなく、クリーミングパウダーを瓶ごと置いてやろう。
 私はそう心に誓い、冷蔵庫に貼った買い物メモに「ブライト」と書き足した。

 彼と私の小さな戦いは、まだ暫く続きそうだ。


BGM : 鬼束ちひろ 『Our Song』




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