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BGM#05
彼が店を訪れるのは随分久しぶりだったので、私がその手紙の存在を思い出したのは、彼のカップの中身が半分に減った頃だった。
彼は窓際の喫煙席で、外を眺めながらアメリカンを味わっている。
私はいくらか躊躇った後、やはりそれを渡すべきだと思い、彼のテーブルへ向かうことにした。
あの日、季節はまだ移ろう気配さえ見せずにいた。
階段を上ってくる足音はひとつ。
お冷の準備をしようとした私よりも先に、喫煙席に座っていた彼が動いた。
『!』
驚いたように顔を見合わせたふたりの間に、天井扇がひやりとした風を送る。
彼は何も言わずにカップを空にし、会計を済ませ、立ち尽くす彼女の脇を抜けて階段を下りて行った。
『…あの、』
何か言いたげな彼女をカウンターへ誘うと、シフォンのワンピースが儚く揺れた。
カフェは1階の雑貨屋と提携しており、そこで扱っているカトラリーを実際に使用している。
また、商品の一部を試供品のような感覚で、カフェの客に無料提供してもいる。
持ち帰り用の焼き菓子に添えられるようにと置いておいたメッセージカードに、彼女は数字のみの連絡先を記し、――それから、鞄の中から大事そうに取り出した指輪を入れた。
――答えを出すのは、私ではない。
そうわかっていても気持ちは重くなるもので、トレイに小さな封筒だけを乗せてやってきた私を、彼は不審そうな目で見上げた。
「…あなたへの預かり物です」
彼が受け取った封筒から転げ出た指輪は、少し色褪せてしまっている。
「俺は、もう、幸せなんです」
かみ締めるように彼は言い、「もしも彼女がまた此処に来ることがあれば」と、そのカードの下に、よどみない手でいくらかの文字を書き足した。
BGMには『This must be love』が甘く流れているけれど、私の耳には『must be love』ではなく『musty love』に聞こえてしまった。
――どちらにせよ、彼にはとんだ皮肉だろうに。
彼は気持ちを逃がすように煙草の煙を吐くと、苦く笑って、カードと指輪を小さな封筒に戻した。
色褪せた思い出に封がされる様を、私はただ、黙って見ている。
私の仕事は、客に苦い珈琲を出すことではない。
どうにも黙っていられなくなって「ごめんなさい」と呟くと、彼は驚いたようだった。
「あなたが謝ることじゃないですよ」
それから彼は私の表情を見て、ことさら明るい声で言った。
「じゃあ、後で連れが来ますのでサービスしてやってください」
「…それは、もちろん、喜んで」
――客に気遣われているようじゃ、私もまだまだのようだ。
何重にも申し訳ない気持ちで、私は彼に笑顔を返す。
甘い甘いケーキを2つ、気合いを入れてデコレーションしなくては。
彼女は、仕事の関係でたまたまこの街に寄ったのだと言っていた。
それから、仕事の関係で、もう2度とこの街に寄ることもなくなるだろうとも言っていた。
私はカウンターに戻り、届くことのないその手紙を、そっと引き出しの奥にしまった。
引き出しの中には他にも手紙が入っている。
何処へ届くこともない――いくつもの、「さようなら」が。
彼が本当の笑顔を見せる相手は、オレンジに染まる階段を上り、もうすぐ此処へやってくる。
BGM : 妹尾武(featuring vo. Lyrico) 『This must be love』
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