showcase 034 3/4
店の空調はよく効いていて、出した肩や指先が冷えることはない。
…でも、心は? 心は一体、何によって温めたらいいというのだろう?
彼の周りに人は絶えない。男も女も――いい人も、そうでない人も。
卑屈になるつもりはないけれど、彼はとても魅力的で、だからこそ私よりももっと華やかな人が隣にいたっていいはずだ、と思う心を私はいつも消せずにいる。
巻き髪の彼女が彼の元カノだと親切に教えてくれた人が、私のいないところで彼に色目を使っていることを知っている。
――じゃあ、彼女が望むものは、
巻き髪の彼女も私も女という生き物で、残念なことに、思い出だけで生きていられるようにはできていない。
――じゃあ、彼女が望むものも、
考え出すとどうしても休まらない、この店の雰囲気が嫌いだ。
ただアルコールと香水の海に飲まれて、ただ音の波に乗って、そこにたゆたうこともできない。
私が彼のものであると知った上で声をかけてくる男の真意は、私を得ることではない。
もっと鈍感に、単純に生きていられたらきっと楽だろうに、気づかなければ気にしなくて済む事柄がこの恋には多すぎると、わかりすぎてしまう自分が嫌だ――
決して自分に自信がないわけではないけれど、思い出すのは、無残に崩れてクリームのはみ出したミルフィーユ。
待ち合わせておきながら奥の席から出てくる気配のない、彼の笑い声は変わらず聞こえてくる。
嫌いを重ねた中に潜んでいる――心に巣食う、醜く熱いものの名前は嫉妬という。
麻痺したような舌でカクテルを飲み干し、私は、バッグに忍ばせていた指輪を、空のグラスの中に入れた。
グラスに満たしてしまいたいのは、今この時、私の矜持を保っているのが、付き合うきっかけになったのが彼からの告白だった、という、――ただそれだけでしかない悲しさ。
私はそのまま、踵を返した。
雨の止んだ直後のアスファルトの、暗い水溜りを見分けられずにヒールが高く飛沫を上げた。
好きと嫌いの間には、いつも小さな隙間しかない。
建物の隙間を流れる風は頬を冷たく撫で、痛みさえ感じさせる。
大通りから1本奥へ入ったブロックにはあのカフェがあるのだが、店はもう仕舞いの時間を過ぎていて、窓越しの雑貨屋もしんとしている。
通りかかる車はなく、暗いミラーと化した窓ガラスに、街灯が私の姿を映し出す。
街路樹が揺れて雨垂れが頬に落ちる。傘は、あの店に忘れてきてしまっていた。
頬を拭おうとハンカチを取り出そうとした時、震えたのは――コートのポケットから出した裸の指ではなく、ポケットの中の携帯電話。
好きだという気持ちを表に出さないのは、言う必要がないと思っているからではない。
好きだという気持ちを上手く通わせられないのは、言葉が足りないという理由からだけではない。
好きだと素直に言えないのは、
彼を嫌いになりはじめた自分の、決して穏やかではない心を隠しきれなくなったから、だ。
憧れていた恋は、こんなものではなかった。
周りに振り回されているようで、その実は周りの見えていないふたり。
お互いだけの世界で袋小路に嵌っているだけ。
そんな恋がしてみたかった、彼ならさせてくれると思っていた、ふたりならできると思っていた、
このカフェで初めてふたりで珈琲を飲んだ、――あの日はそう思っていたのに。
『さっきは随分ひどい顔をしてたよ』
散々待たせて繋いだ先で、吹き荒ぶ風の音が、私の耳元から、携帯電話の向こう側から聞こえてくる。
『ねぇ、』
「…そうでしょうとも」
鏡を見せられなくてもわかる、今だって私は随分ひどい顔をしている。
呼び出したのは彼の方で、それなのに私には見向きもせず、見ていたかと思えばそれは私のひどい顔?
さっきはあんなに楽しそうに笑っていたくせに、私に向ける彼の声は少しも笑いを含まない。
『…俺のこと、嫌いになった?』
小雨まじりの冷たい風、コートが温めた携帯電話、裸の指、温度を感じられない電話越しの彼。
そこには頬を拭うためのハンカチも、風を避けるための場所も、心を温めるための要素もなにもない。
そんなものは――嫌いに決まっている。
それは今に始まったことではなく、私は彼のことをずっと、ずっと嫌いでいる。
私以外にかける声が。私以外に触れる手が。私以外に向ける顔が。
私は彼のものだと言いきれる。けれど彼は私のものであっても、私だけのものではない。
切望しても私だけのものにはならない、その笑顔のことなら――ずっと、ずっと長いこと。
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