showcase 039 2/4
『黒点』
相変わらず、狭くて古臭いエレベーターだった。丸く飛び出た階数ボタンがどこか懐かしく、年月で薄汚れたさまが、どこか切ない。
エレベーターは動き始めに少し揺れ、停まる時にまた少し揺れる。ただ点検だけはきちんとされているようで、階数ボタンの上にはそこだけ明るい白の表示と、見知らぬ人の朱印があった。
防犯用のはずの小さな鏡にぼんやりと反射する、切れかけの蛍光灯。――ここも、昔はそれなりに洒落たマンションだったのかもしれない。だがわかりやすくうらぶれた今、このボタンは日に何度押され、狭い箱は日に何度上下するというのだろうか。
エレベーターを降りてすぐの部屋は数ヶ月前に空き部屋になり、今もなお入居者はいない。片付けられることのないチラシが、新聞受けから溢れている。
自分の靴音だけが響く暗い廊下を通り、仄かな明かりがもれるいつものドアの前で、俺は鍵を使う前に2度、小さくノックをした。
頑丈とは言い難いドアの向こうは、ソファーもない質素なワンルーム。
「…そこで寝るなと何度言えばわかるんだ、おい」
部屋の奥のテレビは点けっぱなしで、公共放送のキャスターが変わり映えのしないスーツで今日の出来事を喋っている。ブラウン管の右上にはアナログの文字。画面の下には、九州が梅雨明けで30度を超えたとかなんとかいうニュース。
夏は間近に迫っているようだが、いかんせん、ここは日当たりのあまりよくない部屋だ。日中の温度上昇と縁遠い場所で、ラグも敷かない床に、クッションを抱きかかえただけの状態で転がっていては風邪を引きかねない。
俺は持っていたビニール袋を脇のローテーブルに置き、おそらく夕食後の眠気に誘われてそのまま夢の国に旅立ったのであろう、穏やかに緩んだ上半身を引き起こした。
「起ーきーろ、」
こいつが転がっていた場所とそうでない場所とでは、足の裏に感じるフローリングの冷たさが明らかに違う。ただでさえひやりと感じる肌がいつも以上に冷えている気がして、俺はいささか眉をしかめつつ、無防備にかくりと折れて肩に寄りかかる頭を撫ぜた。
『危機感がない』
『マイペースすぎる』
人のことをどうこう言えた柄じゃないのは自分でも重々承知の上だが、俺はこいつの無防備さにほとほと困り果てている。口を酸っぱくしても聞く耳持たない、いや、端からそんなことを気にしていない人間に何を言っても仕方がない、というやつか。あれか。馬耳東風。
クッションを脇へ押しやり、背中を胸に寄せさせて座椅子の代わりになってやりながら、片手でビニール袋を漁る。来る途中のコンビニでいつも買う手土産は、こいつのお気に入りのプリン。今日はキャラメル味だ。
蓋をぺりりと剥がす音に、顎の下の頭が揺れた。…ああ、はいはい。
「食べたいなら自分で座れ、重いんだよおまえ」
「……う、ん?」
まだ半分寝ているであろう頭はのんびりとした動きで振り向き、俺の顎鬚と、それからしばらく俺の目を眺めてからこくりと上下に揺れた。
――来てたの、とも、お帰り、とも。言わないのはいつものことだ。
起きないなら食べてやろうと思っていたプリンを渡し、コンビニの袋からスプーンも出してやると、立てた俺の膝に寄りかかったまま、緩む頬は嬉しそうにプリンを食む。その仕草はまるで子どもだが、…仕草と容姿はそれほど一致はしていない。
端についたキャラメルを舐めた唇を、俺は自分のそれで塞ぎ、ついでとばかりに、薄いシャツの中に手を滑らせる。
部屋を手狭に感じるのはいつものことで、だからベッドを手狭に感じるのもいつものことだった。
乗り上げて揺らしながら、爪を立てきれずに背中を滑る手がもどかしくて、捕まえてシーツに縫いつける。誰にはばかる必要のない声をあえて押し殺すような熱い息が、じわり、耳元に沁みる。
征服欲というやつは意地の悪さを連れてくるから厄介だ。
呼吸を繋ぐタイミングをわざと塞げば眉根が寄る。よじれて逃れようとする体がその意思とは関係なく跳ねる場所なら、とうに把握している。
――経験の浅い体を拓いたのは、俺だ。
この部屋は闇に沈まない。あの日、薄いカーテンの向こうから隣の屋上のビルボードの灯りが滲み、痛がるくせに泣かない目尻を染めた。
今日もまたビルボードの灯りが透け、乱れた髪が表情を隠そうとする。胸に手を伸ばせば、その柔らかさが複雑な影を作る。仄かな陰影で世界はぐっと艶を増すから不思議だ。
今はただ素直に昂ぶってゆく体を支配しながら、頭の片隅は妙に冷静に、昼間の会話を思い出している。
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