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『偽りの幻想』


「…もしもし?」
 ディスプレイの非通知を告げる表示を見た時から、もう呼ばれる声が聞こえてた。
 空間を繋ぐよりも前に、あなたは私の名を確かに呼んだ。
 沈黙の合図。
 何も言わない向こう側から、空気のうごめく音が聞こえる。
 ひどく近く、ひどく遠いそこから、私を呼ぶ沈黙。
「どうした?」
 その沈黙へと引き込まれそうになった瞬間に、現実の声が背中から私を連れ戻した。
「なんでもないの、ただのいたずら電話よ」
 そう言って私は、何も言わないままの携帯を静かに閉じた。

 ――何もなかったことにして。
 あなたにそう告げたのが合図だったことは、わかっていた。
 ベッドの端に座っていたあなたが、ただ風に揺れるカーテンに視線を向ける。
 その向こうには、まるで何も見えていないような表情。
 少しの身じろぎもせずに、くわえたタバコの灰がジリジリとすり減るのさえ気にもとめず。
 差し込む光が、紫色の煙の行方を、いつまでもそこに留ませる。
 私はそれをしばらく眺めてから、ゆっくりとまばたきをして、あなたに背を向けた。

 あの時、あなたが私の腕をつかむかもしれないという期待がなかったと言えば、たぶん嘘になる。
 百回の嘘は、百回のキスで、埋められたかもしれなかった。
 ふたりの間を繋いでいたのは、何だったのか。
 何なのか。
 私はただ、それを知りたいと思ってしまった。
 あなたにすべてを委ねてしまう前に、そこから逃げ出した理由。
 あなたは気づいていたのだろうか。

「…どうした?」
 彼がテーブルにグラスを置いて、立ち上がった。
 まっすぐに向き合って見つめ合う時間が、とても長く感じられる。
 そこには、あるはずの安堵がなぜか見つけられない。
 私は、ゆっくりとキッチンのカウンターに置いた携帯へと手を伸ばした。
 彼は私のその動いた指先に視線を移し、ため息に似た深い呼吸を洩らすと、ベランダへ続く窓をカラリと開けてそこへ出た。
 吹き込んだ冷たい風が、そこにあるすべての温度を急激に下げながら、私の胸の奥にまで刺し込んだ。
 廊下へと続くドアに残された隙間は、カチリと音を立てて閉じた。
 意識の奥で、音もなく静かによぎる紫色の煙の行方。
 あなたの視線の先に見えている幻想。
 私は携帯に触れたままの指先を見つめて、そっと引いた。
 ひどく冷たい指先。
 そしてそこに――
 あるはずの指輪が見当たらなかった。
 ベランダに立ち、背中を向けている彼に
 私は
「なんでもないの」
 と、告げることはできなかった。


 -fin-


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