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『FLAVOR OF INSPIRATION』


 俺はこっそりと静かに息を潜め、最善の注意を払ってそれを実行した。
 足音を立てずに階段を上がり、シリンダーに差し込んだ鍵をゆっくりと丁寧に回す。
 頭の中でイメージした通り、限界まで小さい音に留めてロックは解除された。
 この先で気をぬくわけにはいかない。
 ドアを開けたときに感じる空気の流れも、最小限に抑えなければ意味がない。

 ―――きっと今頃、アイツは泣いているだろう。
 夕方、まるで真夏の夕立のあとのような眩しい夕日を見た瞬間に、俺はそう思った。
 ちょうど駅で階段を駆け足で上りきり、街の景色の中に紛れようとした時だ。
 ふたりでよく行くカフェで、いつものケーキを買おうかどうしようか悩んだあげくに降りたその駅のいつもと変わらない風景。
 隣の花屋の店先では、アジサイの鉢植えが水を与えられたばかりで伝う雫を弾き、夕日に照らされて余計に眩しく感じられた。

 真知は、たぶん俺が気づいていないとでも思っているんだろうが。
 たった一度だけ、俺は真知が泣いているのを見たことがある。
 それは単純に驚かせてやろうと思って、予告もなく初めて合鍵を使った日だ。
 廊下からリビングに続く扉の隙間から見たのは、床にぺたりと座り込み、音もなく涙を流している真知の姿だった。
 俺は驚いて、それでもなぜかしばらくそこからは目が離せなかったことを今もよく覚えている。
 俺はそのままもう一度こっそりと外へ出て、しばらく放心した後で電話を入れてから今度は必要以上に騒がしく訪問した。
 その時、真知は何事もなかったかのようにいつもの笑顔で俺を迎え入れた。
 あの日も、確か今日と同じでやけに眩しい夕暮れだったのだ。
 泣いていた理由は、すぐにわかった。
 真知がいつも当てにならないという俺の直感だが、なぜかこれだけは間違ってないという自信がある。


 恐る恐る、ドアを少しだけ開けるとやっぱりあの日と同じように真知は床にぺたりと座り込んでいた。
 ずずーっと鼻をすする音が微かに聴こえてくる。
 真知がちょうど気が済んだとでも言いたげな熱っぽいため息を洩らした頃、俺は気づかれることのないままその背後まで近づいた。
 同じ高さになるようにしゃがみこんで、その背後から俺は真知の頭をわしゃわしゃと乱暴に撫でる。
「ぎゃっ!」
 予想していた以上のリアクションで、真知は振り向いて飛び上がった。
「ななななななな……なに? なんで?!」
「いや、当てにならない勘が当たった」
「は!?」
 真知は慌てながらも、傍にあったティッシュの箱から3枚も掴み取り、明らかに泣いていた顔を今さら覆った。
 俺は、その手を掴むとしゃがんだままの姿勢で右の肩あたりに真知の顔を埋めさせた。
「どうして言わない?」
「………なにを」
「おまえさん、疲れが溜まると泣くんだろう」
 俺の肩に顔を埋めながらも、少々抵抗してみせた身体はそう言った途端にぴたりと動きを止めた。
 しばらくそうして黙っていると、俺の右の肩がじわりと湿り始めたのがわかる。

 ―――やっぱりか
 じっとしたまま、声も上げず、時々その俺よりも随分と細い肩が上下する。
 その熱っぽい呼吸が俺の右側を締め付けるように滲ませてゆく様は、声を出さずに泣いている姿がこんなにも切ないとは思っていなかった俺に、もらい泣きを誘うほどだ。
 俺はゆっくりと足を崩し、完全に身体を預けている真知を支えながら座りなおした。

 いったいどれくらいの時間そうしていたのか、とうとう足が痺れてきた俺は真知の身体を起こすように肩に手をかけた。
「今度からは俺の前で泣いてくれるかね?」
「………」
「真知?」
「………」
「おおーい?」
 顔を覗き込もうとしてバランスを崩した俺の身体に圧し掛かってきたのは、泣きつかれたのか眠ってしまっている真知だった。
「………ああ、やれやれ困った姫だ」
 俺はその眠り姫を抱きかかえて、ベッドまで運ぶとゆっくりと降ろした。
 それから濡れたままの睫毛に指で触れて、起こさないようにそっと隣へと忍び込んだ。




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