order book 015 1/1
『檸檬』
暖簾をくぐると、カウンターから振り向いて俺を確認した視線は、まるで「遅いよ」とでも言いた気な光で揺れた。
「ああ、悪ぃ」
ついいつもの癖で呟いてみたものの、柱に掲げてある時計はちょうど約束の時間を示している。
彼女は呆れたように笑って、すでに空になってしまったグラスの中の氷をからりと鳴らしてみせた。
「雨、降ってた?」
「いや、降ってねえよ」
確かに風は生温く湿りを帯びて、肌に纏わりつくような感があった。
今朝見た天気予報では、夕方から天気が崩れると言っていたような記憶もある。
「そう、最近の天気予報はよくはずすね」
どうでもいいけれど、と付け加えたくなるような口調で彼女は言い、カウンターの向こうに「おかわり」と注文すると空いている座敷へと移動した。
壁際からは大学生らしきグループが盛り上がっている声が聞こえている。
最初のキスは檸檬の味がする、だとかいう信憑性の疑われるネタに花を咲かせているらしい。
彼女はそれを豪快に笑い飛ばしながら「初めてなのに味のするようなキスされたら引くっての」と言って、運ばれてきたグラスに手を伸ばした。
「……ね?」
なんて訊く彼女の手元には、檸檬のチューハイ。
いつもそうだが、苺に葡萄に梅にライチにと果物屋巡りのようなそのオーダーは、見かけによらず子どもじみていて俺の密かな笑いを誘う。
完璧に施されたマニキュアの指先がグラスについた口紅を拭い、マドラーでつつきまわした輪切りの檸檬をグラスの底に沈めた。
そして彼女はまた一口それを嚥下する。
俺は彼女に追いつくためにハイペースで飲み、空になった1杯目の泡のグラスの掲げて「おかわり」と言った。
座敷はカウンターよりも照明が落ちていて、そのお蔭で隣の喧騒が僅かにトーンダウンしたような気にさせる。
久しぶりの酒に少しぼんやりとし始めていた俺は、薄い紗で区切られただけの個室とは名ばかりのそこで、彼女の尖った指先の動きをなんとなく目で追った。
それは妙にしなやかな動きで、汗をかきはじめたグラスを滑り、口紅の付いた淵を拭い、それからおしぼりでさらりと水分をふき取る、その繰り返し。
俺のその視線に気がついたのか、彼女は「なに?」と顔を上げた。
「それ何杯目だ?」
「5杯目」
「は? おまえいったい何時に来たの?」
「30分前ぐらい?」
「…つーか、たまにはぐでんぐでんになったりしねえの?」
「もう充分酔ってるよ?」
それのどこが?
と聞きたくなるほど、相変わらずひどく自然に動く指先は、底に沈んだ檸檬をマドラーで器用に掬い出した。
そしてそれを摘み取ると、含んだ水分を滴らせないように上を向いて口の中へ落とす。
「酸っぱい」
眉を顰めながらそう言うと、彼女はその濡れた人差し指をぺろりと舐めた。
「………おまえねえ?」
言葉を発する唇の動きが、やけにゆっくりと見えた。
やけに艶めかしく見えた。
――気がつけば、俺は座敷の畳に片手をつき、ずるりと身体を動かしていた。
酔っ払いの衝動に、口紅の随分剥がれてしまった唇は抵抗することなくあっさり陥落し、それなのに彼女は、檸檬の味が試したかったのか、と言って俺を殴り飛ばした。
さっき見た無防備な白い喉元のラインに喰らいつきたいだとか、完璧な鎧をつけた指先に噛み付きたいだとか、30分も前から俺が来るのを待ち焦がれてたんだろう、だとか。
好きだ、だとか。
頭の中で巡った言葉は、殴り飛ばされたせいで一気にふっ飛んでしまった。
彼女はけろりとした顔で、さらにおかわりを注文すると、鞄の中からタバコを取り出して火をつける。
「煙草、吸うんだったか?」
「たまに」
「俺にもくれ」
「…煙草味のキスはイヤだけど?」
「…じゃあ、いらね」
多分これから始まるふたりに、最後の味のするキスなんて必要ない。
細い煙を吐き出した唇は、そのままふっと微笑んだ。
窓の外は雨が細かい降り出していて、通りを走る車が上げる飛沫の音が微かに聞こえる。
「なあ、俺、お前がす…」
「私は、嫌いじゃない」
その気にさせてみれば?
俺の台詞を遮った彼女は俺をその気にさせた唇でそう言い、グラスの氷をからりと鳴らした。
あっさりと認めないところが彼女らしくて――この先は随分と長くなりそうだと、俺は密かに笑った。
帰り際の暖簾の向こう、雨を眺める彼女の指先に噛み付いてから交わした二度目のキスは、やっぱり檸檬の味がした。
-fin-
reproduced 【CENTURY】
special thanks for RouRou@【CENTURY】
scenario : RouRou
plan and scenario : 真知
copyright(c)2006 真知 and RouRou all rights reserved.
≪ order book
≪ menu
≪ home