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『ジャスミン』


 夏の訪れを感じる生温い夜風が、胸のボタンをだらしなく外したシャツの隙間から肩を掠めていった。
 生温いといっても、日中の晴れた空の下に長時間いた所為か、適度のアルコールを浴びた所為か、熱帯夜と感じるには程遠い温度が心地いい。
 うっすらと日焼けした俺の肌はネオンの隙間に程よく紛れたが、およそ熱というものを感じさせない涼しげな白い肌は、俺の傍で溜息をこぼした。
 久しぶりに出た繁華街の喧騒に、おまえは少し機嫌が悪い。
 待ち合わせるのに便利だったからという理由で一方的に呼び出した時間、おまえはすでにいつもの店に向かっていたようで、電話越しでも分かるような眉をしかめた声で「わかった」と言った。
 それから暫く待って合わせた顔はやっぱり眉をしかめていて、不機嫌オーラを振りまきながら開口一番に「あなたお酒臭い」と言った。
 ……知ってるよ。おまえが不機嫌な時は、大抵、俺が原因だったりするんだよな。
 不機嫌に拍車をかけたのは、日に日に威力を増す太陽の熱から逃れたくて、少しでも早く冷えた泡を呷りたくて、現地から近い場所で俺だけ先に呑み始めていた――多分、それの所為だろう。

「少し歩くか」
 タクシーは掴まりそうになかった。
 2、3歩後ろを歩くおまえが「あなたのせい」と言っている気がして、俺は歩調を合わせないままでいた。
 景気の悪さなど微塵も感じないこの歩道は、スーツを着た酔っ払いや、地面に座り込んで騒ぐ若者で溢れている。
 その中に時々、細いヒールが小走りで俺を追いかけてくる音が聞こえる。
 足音は軽快なリズムで響き、責められつつも追いかけられるという妙な優越感で俺の心をくすぐった。
 意識は後ろに向けながら、浮いた足で歩く摩天楼の裾。入り混じる臭いと音と熱の間をすり抜けながら、そこだけ確かに捉える、尖ったおまえの気配。
 ああ、男なんて馬鹿なもんだよ。たとえ錯覚だろうとも、それだけで十分嬉しかったりするんだからな。
 酔った勢いに任せて楽しげに歩くスーツの集団を避けるために、俺は僅かに歩調を緩めた。

「おい兄ちゃん、手ぐらい繋いでやらないと、彼女、寂しそうだぞ」
 顔を赤らめた、少々よれたスーツ姿の中年男が、すれ違い様ににやりと笑った。
 俺よりよほど酒臭い揶揄に立ち止まって振り返ると、おまえはもう閉まっている雑貨屋のウインドウに目を向けながら、同じように立ち止まっている。
 それから、にやりと笑うスーツの男に視線を向けると、唇の端を吊り上げて微かに笑った。
 艶めくルージュが綺麗な弧を描く様は、丁度ビルの影に隠れた、あの三日月に似ている。
「べっぴんさんだ」
 ……言われなくとも、そんなことはよく知っている。
 俺は手を伸ばして、掴んだ指先を力任せに引き込んだ。予期せぬ衝撃に安定を崩したおまえが、俺の胸元へと肩をぶつけて滑り込む。
 顎の下でふわりと漂うのはジャスミンの香りで、それに誘われて覗いた顔は、怪訝そうに俺を見上げる。
 掴んだおまえの指先は妙に冷たく、熱に湿った俺の肌へと、まるで棘のようにちくりと浸透する。
 指先にまで現れた天邪鬼なその温度に、おれは密かに笑いを洩らした。


 手を繋ぐの――といっても指先を絡めているだけ――は、どれくらいぶりだろうか。
 いつもの店ならば、おまえの部屋までは5分といったところで、気分よく呑んだ後のおまえは持っているバッグをぐるぐると振り回しながら歩く。だから俺は、必然的に距離を取らざるを得ない。
 指を絡めるなんてことは、ベッドの上でかろうじてあってないようなものだった。
『その気にさせてみれば』
 あの雨の夜、宣戦布告のキスは檸檬の味がした。
 あれから俺は、暇を見つけてはおまえを食事に誘い、呑みに誘い、自分で言うのもなんだが随分と健気でしぶとい戦いを続け――
 初めて手を繋いだのは、休みの日に無理矢理連れ出して攫うようなドライブだったか。
 目的地さえ設定せずに高速に乗り、一晩中走り通して、名前さえないような砂浜で朝日を見た。
 その光におまえはただ眩しそうに目を細めて、俺が伸ばした手に黙って引かれて歩いた。細いヒールが砂で細かく傷ついても、珍しく文句さえ言わなかった。
 その日、俺は初めて――いつもはシャツの襟で隠れているその喉元、細く浮いた鎖骨が、シートベルトで押さえつけられて片側だけ赤く染まるのを知った。
 その白い首筋がジャスミンの香りを纏っていることも知った。
 帰り道、助手席で静かに寝息を立てるおまえを、ひどく愛しいと思った。


 繁華街を抜ければ、そこは突然閑散とした雰囲気で俺たちを飲み込む。
 アルコールによる酔いはもう醒めてしまっていて、さっき嗅いだ官能的な甘い香りがじわじわと俺を侵食している。
 人気のない道に小さく重ねた足音だけが響き、それはひっそりと鼓動を重ねる予感を連れてくる。
 ここまで来れば、俺の部屋まではそれほどの距離もない。

「明日の朝、早いの」
 人通りもなくなってきた頃、おまえはそう言って絡めた指先に力を入れて立ち止まった。
 その一瞬、俺たちの間を渇いた風が吹き抜け、おまえの髪が横顔を覆ってさらりと流れる。
 俺はその横顔に流れた髪を絡めていない方の指先で撫で去り、それから顎の下に差し込んだ指で俺を見上げさせた。
 別に、優位に立とうと思ったわけじゃない。
 ただ、その角度で見る顔がいちばん好きだということを思い出して、俺はしばらくおまえを見下ろしていた。
 何かを待って、反れない視線が上目で俺を見つめ返す、その角度が。
 俺が欲しがるのをわかっていながら――誰がそんなことするもんか、と言い出しそうな態度で、俺を誘う。

 ついさっき別の男に向かって吊り上げた唇を。
 細く尖った指先の冷えた温度を。
 触れたか触れていないか、わからない程度に啄ばむぐらいでは止められそうにない。




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