order book 019 1/2
『KILLNG ME SOFTLY』
真知が店に入るのは、午前8時過ぎである。
【RHAPSODY】の裏通りから抜けて、入り組んだその住宅街にあるそれほど新しくない賃貸マンション。
そこから徒歩で通勤している。
外観はそのとおり新しくない賃貸マンションだったが、入居前にリフォームされたこともあり真知の住む南の角部屋は日当たりもよく内装がシャレている。
気に入っているのは、2階のベランダから見下ろせるダチュラだった。
それが部屋を決める決定的な理由となったほどだ。
大きな花が垂れ下がると、通勤途中にその傍らにある自動販売機の前でよく立ち止まる。
朝の日差しを浴びたダチュラの顔も、真夜中に風に揺れるダチュラの顔も、真知にとっては見慣れた風景だった。
同じマンションに住む人との交流などないが、少し前にはよくその自動販売機で缶コーヒーを買うひどく憂いを帯びた女性を見かけたりしていた。
何度も顔を合わせるうちに、お互いに軽く会釈をするようになったりもした。
たぶん同じマンションの住人であろうと、真知は思っている。
しかし最近はすっかり見かけなくなった。
閉店したカフェで新作のケーキの研究をするようになり、そのまま日付変更線を越えてしまうことが増えたせいだろう。
今朝は夜明けから天気もよく、薄いオレンジ色のダチュラはからりとした柔らかな風に揺られている。
微かなその揺れに――おはよう――と、そう言われたような気がした。
ちょうどダチュラから1mほど先の電柱の下に、ぐにゃりと曲がったひとつの吸殻を見つけた。
真知はそれをつまみ取ると、いったい何が入っているの? とよく聞かれる大きな鞄の中からティッシュを取り出して包む。
「マナー違反ね?」
もう一度ダチュラを見上げながらそう呟いた。
裏口から2Fへ上がると、空気の篭った独特の匂いがする。
下の雑貨屋の店員はまだ誰も来ていないようだった。
そして今朝もいつもどおり、カウンターの横にある小さな窓から大通りを見下ろしてから、そこにあるパキラに水をやる。
店内はいつも閉店時に隅々まで掃除するため、朝はパキラに水をやる以外にそれほど忙しくもない。
独立したカフェではないせいもあり、この店にはランチはないのだが、かわりにケーキはとにかく評判がよい。
それは下の雑貨屋よりも、流行っているといっても過言ではないほどだ。
とはいえ、平日はそれほど混雑しない。
真知の住む住宅街の端にある高級な佇まいの家の奥様たちが、午後からちらほら顔をみせるぐらいである。
オリジナルのケーキは手作りで、テイクアウトはない。
カフェを始めた当初は、どれくらいの量を作ったらいいのかと日々悩んだものだった。
もちろん今となっては、長年の勘によってその悩みもクリアしている。
真知は手書きのレシピノートを鞄から出すと、カウンターの端に座りそれを読みふけった。
しばらくすると下の雑貨屋の店員も出勤し始め、店内の吹き抜けのバルコニーから流れ込む空気の雰囲気が一変する。
そして【RHAPSODY】が開店する時間となる。
やはり平日の午前だけあり、今日も難なく時計は12時を回った。
ちょうど真知が時計を確認した時、カツンカツンとヒールの音を立てて、木製の階段を上がってくる気配がいくつかあった。
カウンターの中から階段をみつめていると、その足音に予想した通り、顔を見せたのは常連の3人だった。
「いらっしゃいまっせー」
声をかけると、いつもの3人組は同時に目尻を下げて微笑んだようだった。
必ずカウンターに座るこの3人が、カフェからしばらく行った先にあるビルの中にある探偵事務所の職員であることを真知は半年ほど前から知っている。
3人がそう教えてくれたわけではなかったが、いつからか暗黙の了解のような関係になっていた。
カフェの壁にひとつだけ飾られている桜の絵は、その3人の中で最年少の[蓮花]から贈られたものだ。
「今日はヒマなのよぇ…天気もよくて眠くていけないわ」
「お絵かきがはかどりますの」
「あたし、ケーキ食うわ」
それぞれがまったく違う言葉を同時に発し、注文される前に出したいつもの飲み物にそれもまた同時に手をつけた。
「ケーキ食べるのは、愛してるぅるぅだけ?」
真知はカウンターの内側で、3つのケーキを用意しながらわざとそう聞く。
窓の外を眺めていた―3人の中で最年長の―[しの]が、真知の顔を見つめたのと同時に、真知は3つのケーキを順番に出していく。
「てか、まむちょー? 最近新しいケーキ作ってないでしょ」
そう言ったのは、真知がいつも「愛してるぅるぅ」と呼ぶその人だった。
「そうよね! ドリンクに付いてくるこんぺいとうすら、ここんとこ同じなのよね」
しのがそれに便乗してそう言いながら、ケーキにフォークを突き立てる。
「うわぁぁぁぁん!! だって、だって………」
真知がそう叫びながら泣いたふりをしたところで、しのもるぅもまるで動じない。
唯一、蓮花だけが慌てたような顔で真知を心配する素振りを見せた。
そうしてしばらく他愛もない会話を楽しんで、3人は帰って行った。
真知が店でこだわって使っているカップを丁寧に洗い終えた頃に、見上げた時計は午後2時を回っていた。
新作を作っていないと指摘されたこともあり、真知はもう一度レシピノートを広げようと濡れた手を丁寧に拭く。
下の雑貨屋から微かに聴こえてくる会話と、天井に埋め込まれたスピーカーから流れる歌声をBGMに、真知は新作のケーキの構想を練り始めた。
このところ新しいケーキを作ることに対して気分がのらないのは、いったいどうしたことなのだろうか。
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