order book 019 2/2
ちょうど某インスタント珈琲のCMに使われている有名なロバータ・フラックの曲を、ルーサー・バンドロスがカバーしているバージョンが流れ始めた時だった。
聞いたことのない足音がふたつ、階段を上ってくる。
それは平日にめずらしいカップルのお客様だった。
ふたりは店の一番奥のテーブルに着くと、メニューを広げて黙ったままそれを眺めている。
「グァテマラがある……」
「ああ、アレか」
「なに? 知ってるの?」
「アレだろ、あの夜の」
「バカ! グァテマラは地名よ」
妙に落ち着いた雰囲気の女性が、メニューから顔を上げた時、真知は思わず「ん!」と口に出した。
その顔は、確かにいつかダチュラの下で缶コーヒーを買っていた女性だったからだ。
真知の声に気がついた二人が、同時に振り返る。
女性は一瞬だけ怪訝そうな表情をしてから「あ……」と言った。
どうやら彼女の方も、真知に気がついたようだった。
「―――グァテマラを」
彼女がそう言って微笑んだ顔は、いつかの頃とは随分と雰囲気が違っているように思えた。
ルーサー・バンドロスの歌声に、グァテマラの香りはとても心地いい。
細かいところにこだわりを持つ性格の真知は、仕入れる珈琲豆にもこだわりがある。
【RHAPSODY】の珈琲メニューは種類が豊富だ。
カフェを始めてから、あれやこれやと調べているうちにその種類の多さを知り、真知は適当な妥協ができなくなってしまったのだ。
お手ごろな価格で飲めるもの以外に「スペシャル珈琲」というメニューがある。
珈琲の産地名をそのまま記してあるモノは、グァテマラ以外にもおなじみのハワイ・コナやブラジル、コロンビアなどがある。
スペシャルなだけあって、カップ1杯の値段は普通のブレンドの倍ほどする。
挽きたての豆で入れたグァテマラの入ったカップに添えられた彼女の指で、温かな色の石の指輪がきらりと光った。
カップを覗き込んだ彼女をみつめる彼の方はといえば、とても言葉では表現できないような柔らかな熱視線を発している。
それは真知が久しぶりに感じる穏やかな空気だった。
――その歌は私の気持ちを柔らかくうっとりさせる
繰り返される歌声の中で、真知は開いたままのレシピノートを眺めてペンを取った。
午後の温かな日差しの片隅で、言葉少なに珈琲を楽しめるひとときを。
何よりもあなたを想う優しい甘さを―――
そうして始めたカフェだったのだ。
決して甘すぎず、するりと喉を通ってゆく新しいケーキの細かいデザインが完成した。
そして最後に「KILLNG ME SOFTLY」と添える。
今夜は徹夜になりそうだと、真知は思った。
「また来ます」
そう言って帰って行ったふたりが、階段を下りてゆくのをその姿が見えなくなるまで眺めた。
彼女が手にしていた袋の中身は、たぶん下の雑貨屋で買ったそろいのカップだろう。
きっとあのダチュラの下にある自動販売機で、缶コーヒーを買うことはもうないのだろう。
根拠もなく、それでも確かに真知はそう思う。
【RHAPSODY】の一日は、それからいつもと変わらない穏やかさで終わっていった。
下の雑貨屋がすべての照明を消すと、カフェの窓からは下弦の月の細い光が射しこんでいるのがよくわかる。
そしてカフェの奥にある厨房からは、ひとり試行錯誤を繰り返す真知の唸り声が聴こえてくる。
新作のケーキ「KILLING ME SOFTLY」を一番初めに食べることとなるのは、それから3日後の午後。
依頼人とのトラブル処理に嫌気がさしたと言って駆け込んだ、探偵事務所の3人である―――
-fin-
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