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『ためいきでうたう歌』
「忙しいのに、いつもありがとう」
「…たまには休憩しないとやってられないもの」
「来てくれて嬉しい」
「…うん」
私を待つテーブルは、いつものように西日に照らされている。
そこには、先回りで出迎えてくれるマスターと、多分2杯目の珈琲カップを傾けるあなた。
私は、寒い冬も冷たい雨の日も、いつでも温かな印象を与えてくれる、この窓際の席が好きだった。
向かいに座ったあなたが、私を見て目尻に寄せる皺が好きだった。
だから、あなたから『いつものところにいるよ』と連絡を貰うたび、忙しい自分を承知の上で、少しでもいいからあなたの顔が見たいと思ってしまうのだった。
時計を気にしだした私を見て、案の定、あなたは寂しそうに目を揺らす。
「もう帰るの?」
「ごめんね、いつもこんなので」
私は俯いて、カップについた口紅を指で拭った。あなたの珈琲から漂うシナモンの香りは、まだ温かさを保っている。
待たせておきながら慌しく席を立つことに、申し訳なさを感じないわけがない。
曇った眼鏡のレンズをナプキンで拭い、バッグから財布を取り出して、テーブルの上にいくつかのコインを置く。
あなたはそれ以上、何も言わない。
ただ、柔らかそうに見えて実は筋肉質な手がカップを包み、シナモンの香りをほっと吐く――
その温度がだんだん冷えて、溜め息に変わる瞬間――斜陽を映して海のように揺れる、あなたの目を見るのが私は好きだった。
「また、…呼んでね」
BGMは何度か聴いたことのある曲で、頷いたあなたがそれに合わせて小さく歌う声が耳に響く。
立ち上がりざま、バッグに引っ掛けてしまった観葉植物の葉が揺れる。
――席を立つ私の背中を見ているであろうあなたの目は、まだ揺れているのだろうか。
いつからだろう、あなたの心にさざなみを立てるのが、いつでも私でありたいと、そう思い始めたのは。
あなたに見えないところで私の心が揺れるのを、あなたはまだ――知らずにいるのに。
あの夏はいつにも増した茹だるような暑さでもって、私の理性を溶かしていった。
知り合いの知り合いといった程度の繋がりの、それまでの好みとは全然似通うところのない男に入れあげた私を、あなたはただ黙って見ていた。
…まぁ、そういうものだろう。
そもそも私たちは友人という関係でもない単なるカフェの常連客で、会話といってもほとんどがマスターを間に通してのものだったから、互いについて詳しく知ることもなかった。
ただ、あなたから香る潮の香りを、マスターとふたりで不思議に思っていたくらいだった。
あの店から歩いていける距離に、海はない。あるのはただ、店の裏に細く通る用水路と、その脇を飾る桜並木。
あなたは珈琲を入れたタンブラーを持ち、満開だったり葉桜であったりする桜を眺めに行っては、同じように桜を眺めている人たちと交わした会話の数々を、マスターとにこやかに話していた。
私はそれを見ているだけ、若しくは時折投げかけられるマスターの声に、相槌を打つだけ。
そんな私たちの関係が少しだけ変わったのは――今も鮮明に覚えている、夏が終わろうとしていた、あの日の夕暮れ。
あの時どうして不思議に思わなかったのだろう、というのは、既に終わってしまったものに対する憐憫でしかない。
只中に溺れるだけの者にはそういった疑問を思い浮かべる余地はないし、余裕もない。後悔もない。少なくとも私はそうだった。
片時も離れたくないと想っていたその恋は、想い始めるのも、手に入るのも急すぎて、戸惑ったり躊躇ったりする時間を、1度も私に与えなかった。
夜を越えるたびに夢を見た、彼と私の間の全てが必然であると、信じて疑わなかったあの夏。
しかしあまりに近くにいすぎた日々は私から客観視を奪い、結果的には見えないものを、不安と呼ばれる類のものばかりを増やしていった。
そうやって空いた部分を、女特有の甘えた思考回路でもって、自分に都合のよい考えで埋めようとして――夏の陽の強さが徐々に翳るように、破綻の影を呼び寄せてしまったのは、私。
短期間で築かれた関係は言うまでもなく脆いもので、彼と私、どちらからともなくさよならを告げたのは当然のことだったと、今ならばそう言える。
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