order book 029 2/7
…けれど、あの日の私は、それを素直に受け入れられなかった。
夏が終わる予感をどうにかして打ち消そうと、言葉を並べ立ててなんとか繕おうとした。それまでのふたりを意味もなく繰り返そうとして、彼の苛立ちを募らせた。
そして私は誰の言葉にも、それこそあんなに好きだった彼の言葉にも、聞く耳を持とうとしなくなった。
女なんていうものはずるい生き物で、ほんの少し涙を見せるだけで、擁護されるべきは自分であると主張することができる。
本当は、この終わりが私のせいであると認めたくなかった、というただそれだけの理由で――私は苦し紛れの思惑通り、擁護されるべきずるい女になったのだった。
愚かな恋だった。
否、――その恋に対して私が恐ろしく愚かだった、と言うべきだろう。
『もう、帰るの』
彼に別れを告げ、揺れる心を持て余してひとりで立ち寄ったいつものカフェに、先客はあなたひとりだった。
数席開けて座ったカウンターで、塩キャラメルを含んだ私の声は――塩キャラメルはマスターがくれた――妙にこもって聞こえたことだろう。
急に声をかけてきた私を不思議そうにじっと見て、あなたはそれから何度か瞬きをした。
その時どうして彼に声をかけたのか――それは今もわからない。
私はただひとりになりたくなかっただけなのかもしれないし、それとは別に何か理由があったのかもしれない。
どちらにせよ、今となってはどうでもいいことだ。
『気分転換にいい散歩道があるんだけど、教えてあげようか?』
あなたの目は、全てを見透かすような綺麗な色をしていた。愚かな私を映すことなくその向こうを見ているような、自分を直視できない私の自己嫌悪の部分に触れずにいてくれるような、そんな目をしていた。
『散歩のお供にうってつけの珈琲があるんだけど、淹れてあげようか?』
『…マスターには、訊いてないし』
私は明らかにむくれた顔をしていたのはずなのに、あなたはそんな私を見て、とても穏やかな表情で、目尻にふんわりと皺を寄せて言った。
『もう、帰るの?』
まだなら待っててあげてもいいよ、とあなたは笑った。それは私がはじめてちゃんと見るあなたの笑顔で、私はどうしてだか安堵したのを覚えている。
安堵と同時に、この人はこんな柔らかな雰囲気を自然に作ることができるのか、と、いくらか羨ましく思いもした。妬ましく思いもした。
…それは私が作ろうとして、結局、作ることのできなかったものだった。
『モカ飲むまで待っててあげてくれる?』
『いいよ』
舌の上で珈琲が香る間、あなたとマスターの間で、あなたと私の話が勝手に決まっていった。
――そう言えば、と私はそこでようやく気がついたのだ。
『もう帰るの』とは、彼からは結局、1度も聞くことができなかったのだ、と。
視界が少しぼんやりしているのは、珈琲の湯気で眼鏡のレンズが曇ったせいなのか、それとも――
あの夏の終わり、むせるほどの潮の香りに包まれて、手をひかれて歩いた海沿いの散歩道。
夏の恋のはじまりにはそれを大事にしていこうと思っていたはずなのに、私はただのめり込むだけで、ちっとも大事にできていなかった。
想いの逃がし方を知らずにいた私を、点在する街灯が滲むように照らした夜。
唇に乗せた塩の味が乾くまで、私は、振り向かずにいてくれるあなたの肩だけを、ずっとずっと眺めていた。
あれから季節はいくつも巡り、カフェの裏にある桜並木も、今ではすっかり葉桜になってしまっている。
あなたが手にしていたタンブラーはカフェの1階にある雑貨屋のもので、それを使うとカフェの珈琲が割引価格になるのを知ったのは、少し前の、まだ花が見頃だった時の話だ。
花の季節には、並木を見下ろせるカフェの客も増える。花が終わりかけ、あらかた葉桜になった今でもそうだ。
窓際の席は当たり前だが特に人気で、ひとりで訪れた私は、そこをよけて以前のようにカウンターに腰を落ち着ける。
「今日は、塩キャラメルはいらない?」
マスターは私を見てにやにやと笑った。
「…涙の味なんてもう忘れたし」
本当にもう、この人の悪い顔をなんとかして欲しいものだと私は思う。この店に長く通うほど、マスターの好ましさと憎たらしさは比例して増えてゆく。
あの夏の恋のことは――すっかりとまではいかないものの、過去の一部として、自分で認められるほどにはなっている。
傷口にできたかさぶたは、同じ轍を踏まないようにという私自身への戒め。
「じゃあ、仕方がないからコレをあげよう」
エプロンのポケットから取り出されたのは、懐かしい柄の包装紙に包まれた、いちごみるく味の飴。
マスターは私の手に飴を乗せた。
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