order book 029 3/7
「調子に乗って買いすぎたのです。なんと3袋!」
「それってオヤツじゃなくて仕入れの単位っぽいよね?」
「うっ…」
マスターとじゃれるのは単純に楽しくて、私は自然と笑顔になる。するとマスターは笑った私の顔を見て、眼鏡の奥の目を満足そうに細めるのだった。
本当に、憎たらしくも好ましい人だ。
今日の店内は、ひとりで訪れている女性客が多い。マスターは甲斐甲斐しく各テーブルを回っては、時折、ポケットから飴を取り出して笑顔を見せる。
飴はどうやら、常連客へのサービスらしい。
天気のいい昼下がり、カフェの美味しい珈琲を片手に、手帳や携帯電話を弄る人々。
でしゃばり過ぎない愛すべきマスター、ボリュームを絞ったBGM。物思いにふけるには、ここはうってつけの場所だろう。
その日の出来事を脳が整理している時に、人はその一端を夢という現象で垣間見るのだという。
彼女たちは、手帳や携帯電話の向こうに、感情を吐き出す場所を求めているのかもしれない。
本能的に大声をあげて涙するそれよりも、少し理性の方へと傾けた、嘆きや痛み。書き出すことによって内に抱えた複雑な感情を整理している、あれはそういうことなのだろうか。
それならば、私にも身に覚えがある。
季節の変わり目には、どうしても考えるべきことが増えるものだから。
つられて手帳を開くと、あの日、汚してしまったあなたのハンカチが、まるでお守りのようにしてそれに挟まれている。
あの日、涙を拭ってくれたあなたの手は、優しくて温かかった。
洗濯しても落ちなかったファンデーションの染みを、あなたは笑い飛ばしてくれた。私が買った新しいハンカチを、『いいね』と笑顔で受け取ってくれた。
ぱちりとした大きな目が細められると、私はまた、柔らかな空気に包まれる。
――それは、とても素直なあなたにしか成し得ない、安らぎの具現。
あの後私はもう1度だけ、同じ道をたどってみたことがある。
本当はカフェに行こうとしていたのだけれど、あまりに大きな月が綺麗だったから…ようは単なる気まぐれだ。
あなたが好んで歩く海沿いの散歩道は、春半ばの夕暮れに歩くにはまだ肌寒くて、薄着の私は少しだけ後悔した。そしてその肌寒さは、季節の巡りを、あの恋の終わりから経った月日の長さを、私に実感させたのだった。
海を連想させたあなたの香りはここが原因だったんだ、と、潮騒を聞きながら思う。
月が出ているお陰で、遠くの方までよく見えた。小さな犬を連れた人がひとり、こちらに向かって歩いてくる。
夕暮れだった空は、いつの間にか濃い藍色へと変化していた。街灯のついていない電信柱にさえくっきりと影が見え、近づいてくる人が見覚えのあるシルエットだと、容易に判別できるほどの明るさ。
『どうしたの』
ゆらゆら揺れる水面に月が映り、光の加減のせいだろうか、同じようにゆらゆらと揺れた海のような目で、あなたは私を見た。
『…どうしてかな』
ここがあなたの散歩道だということはもちろん知っていた。でも今あなたに会うことになろうとは、私はちっとも想像していなかった。
『こんな時間に女の子ひとりで歩いてて、それ?』
拍子抜けしたらしいあなたの足元で、あなたの小さな犬が戯れる。
『犬、飼ってるんだね』
『ああ…カフェには連れて行けないからね、こいつは』
『雑貨屋さんで足止めされちゃう?』
『そうだね』
カフェの1階は雑貨屋になっていて、床から天井まで雑多な店内では、ペット同伴での入店は禁止されている。
『そのうちオープンカフェにしてペット可にする!』とマスターは意気込んでいるけれど、いかんせん従業員数が少ない店なので、実現するのは難しそうだ。
『結構愛想いいでしょ』
私の足元に転がって遊び始めた犬を見て、彼はいつものように目を細めた。
――私はまた、彼の作り出す柔らかな空気に包まれる。
『危ないから、次からは俺を呼んでよ』
あなたは『バス停まで送る』と言って、ためらわずに私の手を引いた。
…『次からは俺を呼んでよ』とは、どういう意味なのだろうか。
相手が他の男ならば私も裏を読もうと躍起になるのだけれど、どうしてだか、あなたの言葉にはそういった過剰な反応をせずに済むのが不思議だった。
街灯と街灯の間を抜け、電信柱の影を越え、潮騒の中を歩く間、あの夜と同じように、私はあなたの肩を見ていた。振り向かずにいてくれる、あなたの肩を見て歩いた。
あの夜は拭われた涙のおかげで私は眼鏡を外していたのだけれど、今夜は一緒に潮風に吹かれているせいで、せっかくの月夜が少し曇って見えてしまうのが残念だった。
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