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『次の電信柱を越えてから曲がると、俺の家のところに出るんだ』
さっき私が降り立ったバス停は、古くなった電球が滲んだ光を投げかけている。次のバスの到着まではまだ結構な時間があった。
どうしてだか繋いだままの手はどちらともなくしっとりと汗ばんでいて、それでも、私はそれを離そうという気にはならなかった。
だから、ふいに近づいたあなたの顔の、羨ましいほどの睫毛の長さを、ただぼんやりと見ているだけだった。
『どうしたらいいのかわからないんだけど、』
ためらいがちにそう言って、私の唇にそっと触れたのは――あなたの、海の香り。
どうしたらいいのかわからないのは、私も同じだ。
ただ――真っ直ぐな目に見つめられるのを心地いいと思った、多分その時から、私はあなたを想いはじめたのだろう。
それだけが、真実としてそこにあった。
全てを肯定も否定もせずに内包し、海のように揺れるあなたの目。
また夏が来ようとしているこの季節の変わり目に、私は本当に途方に暮れてしまっている。
手に入れるのを急ぎすぎた恋は、あっけなく破綻するものだと知ったあの夏。私はまだ、その苦さを覚えている。その痛みを覚えている。
だから――
あなたの揺れる目をひとりじめしたいのに、その目に応えるには、まだまだ時間が足りないような気がするのだ。
呼ばれれば例え僅かな時間でも会いたいと思う、そのための多少の無理なら厭わない。寒い冬も冷たい雨の日も、いつでも温かな印象を与えてくれるあの窓際の席で、向かいに座ったあなたが目尻に寄せる皺を愛しいと思う。
聞きなれたBGMを追いながら、席を立つ私と、背中を見つめるあなたの気持ちを重ねたつもりで――
だから、私は今もまだ。
この距離に甘んじて、確かな答えを出さずにいるまま、あなたと同じ溜め息で歌を歌う。
久しぶりの雨は私の足を止め、雨宿りを強いた。どうせならといつものカフェへと思い、なるべく濡れないようにと建物の軒下をたどる。
雨もうそれほど冷たいと感じることもなく、灰色の空の下、色を増した街路樹から緑の雨垂れとなってアスファルトへと落ちた。
ハンカチで濡れた眼鏡のレンズを拭う間、カウンターからはマスターがモカを淹れるいい香りが漂ってくる。
「眼鏡が集まると交換会がはじまるのはなんでだろうねー?」
「…そうなの?」
「なぁに、交換会したことないの?」
「うん」
私の前にカップを置きながら、レンズの奥でマスターが目を丸める。
「じゃあ、私の貸してあげるから、代わりにその眼鏡貸して」
マスターに言われるままに、私は眼鏡を渡す。代わりに手にしたマスターの眼鏡を試しにかけてみると、それはかなりの度数があり、くらくらする視界に私は思わず声を漏らした。
「わぁっ、何これ」
「何これっ、度数入ってないの?」
マスターも驚いた様子で声を上げた。
――無理もない。私の眼鏡は伊達なのだ。
「「…似合わないねぇ」」
自分のものではない眼鏡をかけた互いの姿はどちらもおかしなもので、私とマスターは声を上げて笑った。なるほど、これはこれで楽しい。
眼鏡なんてただかけるものだという感覚でしかなかったから、こうしてコミュニケーションツールにできるとは思ってもみなかった。
「伊達眼鏡ねぇ」
マスターはそう言い、「ついでだから綺麗にしてあげる」と言って私の眼鏡を持って行った。レンズの曇りは食器用洗剤で洗うとずいぶん綺麗になるらしい。
ハンカチで拭う程度では上手に落とせなかったので、素直にその好意に甘えることにして、私はモカをすする。
そもそも、眼鏡は私に必要のないものだった。
さして悪くもない視力は使い捨てのコンタクトで安く補えたし、眼鏡をファッションの一部として取り入れることに対しての関心も、持ち合わせていなかった。
眼鏡をかけるようになったのは――彼と付き合い始めた頃の話だ。
あの頃は何でも彼と同じようにしたかった。そうすることで、彼との距離が近づくような気がして嬉しかった。
携帯電話もストラップもキーケースも、アクセサリーも、…それから、眼鏡も。
彼と別れた後でそれらを処分した、そのことに後悔はない。彼はもう隣にいないのに、うわべだけの繋がりなんて必要のないものであり、痛みを思い出すだけのものであったから。
…けれど、眼鏡だけはそのままになった。
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