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 眼鏡を処分しない理由――かけることに中途半端に慣れてしまった、というのも一理あるけれど。
 私が眼鏡をかけることに関して、彼は好意的ではなかった。寧ろそれを嫌がった。例えば行為になだれこもうとする時、それは彼にとって邪魔なものが増えるということでしかなかったから。
 ――私が彼に合わせて変えた物の中で、唯一彼の歓心を得なかった物。そのことが、私自身への戒めとなる。


「ねぇ、この眼鏡、ねじが緩んでるみたい」
「え?」
 ペーパータオルで拭かれて戻ってきた私の眼鏡は、マスターの言う通り、右側のねじが緩んでしまっている。
 眼鏡のねじというのはとても小さなもので、特殊なねじ回しでなければ保守ができないのだとマスターは言った。残念ながらマスター自身はそれを持っておらず、この雨の中を歩いて行けるほど、近くに眼鏡屋はないらしい。
 確かに、のびた爪の先で弄れるほど緩んだねじでは、このままかけ続けることなどできそうにはなかった。
「今すぐ直さないと支障が出る?」
「…それは、別に」
「ふぅん?」
 意味ありげにマスターが笑う。度数の強いレンズの奥の目は何かを見透かしているようで、私は少し居心地が悪くなる。
「……」

 私にとって、レンズを1枚通してあなたを見ることは、想いを曖昧に隠してしまうことと同義だった。
 曖昧な距離を保ったまま、揺れるあなたの目の中で私が揺れていられたら、今はそれでいいと思っていた。
 彼の歓心を得なかった眼鏡は私自身への戒めであり、あなたを間接的に見ようと努めるためのお守りであり、ふたりを隔てるただ1枚の壁であり――
 手に入れることを急ぎすぎると、終わってしまったあの夏のように、あなたはいずれいなくなってしまうかもしれない。
 優しく包んでくれるあなたの雰囲気を、感じることができなくなってしまうのかもしれない。
 ――そう思うと、胸が苦しい。
 カップの中に零れた溜め息は、モカの華やかな香りを散らして揺れる。

「そう言えば、忘れ物をお預かりしているのよね」
「え、ごめんなさ、…?」
 思いにふけって俯いた私に、マスターは思いもよらない物を差し出した。それは見覚えのない、男物の時計。
「彼、いつも時計を外しているから」
 あなたを待っている時は、とマスターは続けた。
 マスターは彼を知らない。
 マスターが言う「彼」とは、私の過去に影を落とす「彼」ではなく、私と向かい合って珈琲カップを傾ける「あなた」のことだ。
「多分、自分が時計を忘れたことも忘れてるんじゃないかと思うのよ。だから届けてあげてくれる?」
 私が何度言っても直らないあなたの癖には、マスターもだいぶ見覚えがあるのだろう。
 そう言えば、あなたが持っているタンブラーは、いつも違う柄だったような気がする。さては何度も家に忘れては、新しく買ったりしていたのだろうか。そのたびに、呆れ顔のマスターに珈琲を淹れてもらったりしていたのだろうか。
 目に浮かぶようなあなたの姿は、なぜだかとても、微笑ましい。
「ここに来るのは忘れてても、あなたからの電話なら忘れてないでちゃんと出るでしょ?」
 マスターはカウンターにしか置いていないこんぺいとうの瓶の蓋を開け、ころりと1粒口に放り込んだ。
「…そう思う?」
「そりゃあねー」
「そう、かなぁ…」
 語尾は、情けなくもカフェの空気に滲んで消える。レンズ越しではないカフェの風景は、どうしてだろうか、どこか照れくささを感じさせた。
「そろそろ素直になってもいいんじゃないの」なんて言うマスターを無視して、私もこんぺいとうを摘む。
 砂糖の甘さは、舌の上に優しく広がって溶けた。



 カフェの窓際から見える桜並木の用水路には、小さな歩道橋がかけられている。
 そこには雨だというのに――いや、雨だからなのだろうか、葉桜からの雨垂れを写真に撮る人がいる。
 彼女たちの視線の先に見えているものは、光の加減で煌く小さな雨垂れではなく、その向こう側にいる、それを見せてあげたい誰かなのかもしれないと、私も同じ道をたどりながら思う。
 煌きは一瞬。
 その一瞬でさえも共有していたい誰かのための、私の一瞬。
 試しに撮ってみた葉の間には、小さく色づいた実が写っていた。




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