order book 029 6/7
全てに意味はない、といった考えには頷くことができないけれど、全てに意味がある、といった考えになら、頷けそうな気がする。
あっけなく終わりを迎えたあの夏。情けない泣き顔を晒しても不思議と恥ずかしく感じなかったあの夜。あなたに引かれた手。
海のように揺れるあなたの目、溜め息で歌った歌、珈琲に浮かべたシナモンの香り、
ゆるんだ眼鏡のねじ、あなたが忘れてしまった時計、いつかはあがる夏前の雨――
『眼鏡屋さんでも時計屋さんでもないけど、手先の器用な知り合いなら近くにいるから、紹介してあげる』
そう言ってマスターが紹介してくれたのは、私がまだ行ったことのない、小さな鍵屋の店主だった。
用水路の橋を渡って行った斜め向かいの、小さな店舗。重厚なドアを開けると地下に降りる階段があり、それを下りた先が鍵屋の店舗になっているのだという。
カフェの窓際で示された場所からは、ちょうど、傘を開いたふたり連れが歩いて出てくるところだった。
『ウチ以上におかしなお店だから』とマスターは微笑み、『電池、残り僅かみたいだからついでに換えてもらったら』と言った。私はねじの緩んだ眼鏡と時の止まりそうな時計とを交互に眺めて、最後のひとくち、モカをすする。
鍵屋の主人は親切な女性で、私の眼鏡と彼の時計を直すと『マスターにつけとくから』と言って笑った。
彼女の作業机の上には雑貨屋のタンブラーが置いてあり、こんぺいとうの瓶を抱えるようにしていくつものあみぐるみが飾られていた。しかもそれは、時々雑貨屋の店頭に並んでいるものによく似ていた。
そのあみぐるみは人気商品なのに入荷数が少なく、しかも不定期に販売されるため、私はまだ手に入れていない。
『これって、もしかして?』
『…ご存知なんですか』
あみぐるみまで作ってしまう手先が器用でちっとも鍵屋らしくない鍵屋さんは、マスターの言う通り面白く、そして優しい人だった。
借りた傘を返しにカフェへ行くと、マスターはいつもと変わらない顔で迎えてくれる。
雨はもうほとんどあがり、傾き始めた陽が窓際の席をオレンジに染め始めていた。
真新しい電池に交換して、ふたたび動き出したあなたの時計。
私たちも、こんな風に動き出すべき時が来たのなら――これ以上、今の距離を保ったままで、揺れていることはできない。
――これはもう、私には必要のないものだ。
私はねじの締めなおされた眼鏡をマスターに預けて、携帯電話のメモリーからあなたの番号を呼び出した。
電話越しの声の柔らかさを思いながら呼び出し音を聞いた先で、あなたに繋がる夜が訪れるように。
レンズという壁を捨てた今、私が持つのは――少しの照れと、素直な気持ち。
あなたの声が、耳元で聞こえる。
海沿いの散歩道は、雨雲の隙間から覗く月の光に照らされていた。
バスを降りた私を包む潮騒と、あなたを思わせる海の香り。いつの間にか、郷愁のような愛しさをもって私を迎える藍色の空。
2度目の時とは逆の方向から――バス停の向こう、電信柱の角を曲がって、あなたの姿が近づいてくる。
私は携帯電話をバッグに仕舞い、あなたがそばに来る前に、ひとつ大きな深呼吸をした。
「忘れ物するくせ、相変わらずだね」
「そうだね」
あなたは「ありがとう」と笑って時計を受け取り、ジーンズのポケットに仕舞った。
重みのあるあなたの時計は、もう私の手の中にない。差し出した手の行方を定めきれず、気持ちを持て余したままで、私は両手でバッグを握った。
あまりに明るい月の光を受けて、足元に落ちる影。
あなたと私の間のたった数歩の距離を隔てる、電信柱の影と、潮風でわずかに波打つ雨上がりの水溜り。
「このままじゃだめだなって思ってても、どうしていいのかわからない事って、結構あるよね…?」
「……」
私を見つめ返す目が、月の光を映してゆらゆらと揺れた。いま何か言わなければ、私たちは前に進めない――そう訴えかけるように。
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