order book 030 1/2
『その店先に、花束を。』
ああ、今日も良く働いたなあ。
私は「CLOSE」の札を掛け、店の入り口の施錠を確認した。裏手に回れば直ぐに自宅の玄関があるけれど、今日はまだやることがある。
時計を睨みながら、ぶらぶらと橋の方へ向かった。
初めてその店に足を踏み入れた時のことを、私は昨日のことのように覚えている。
何度か見かけたことはあるけれど交流を持たなかったその人を、私はいつも遠巻きに眺めていた。
――なんとなく怖そうなんだよな、あの人。
イメージ先行とは恐ろしいもので勝手に『怖い人』と脳にインプットした私は、興味深い会話を耳にしても遠くから見てはこっそり笑うという日々を相当長い間続けていた。
ひょんなことから知り合いとなり、彼女が私の店からそう遠くない所にカフェを構えているのだと知った。それなら1度ご挨拶に伺わなければ――そうして恐る恐るカフェに入った時の緊張感といったらなかった。
初めて訪れた彼氏の実家――? 近いけれどちょっと違う。戦で敵地に乗り込む――? 案外、近いかもしれない。とにかく、少なからず「ここで命を落とすやも知れぬ」などという悲壮な覚悟を持って行ったことは確かだ。
けれどそんな私の覚悟とは裏腹に、マスターである彼女は笑顔で私を迎えてくれた。あの時のちょっと拍子抜けした感じもまた、はっきりと覚えている。
店の末席でびくびくしていた私もいつしか個人的に連絡を取るまでに親しくなり、今では友人――と呼んでも差し支えないだろうか、と、少なくとも私は思っている。
日中降り続いた雨はひと時、休息を迎えていた。けれど明日は――まだぎりぎりで日付は変わっていない――また朝から雨だという。
この湿り気を帯びた空気が何よりもそれを証明している。空は一面、低い雲に覆われている。
ただでさえ立地が芳しくない私の店だ。雨の週末となれば一段と客足が鈍るのだろう。
あーあーあ やんなっちゃったー♪
誰もいない細い細い橋を歌いながら渡ると、街路樹の向こうにカフェが見えた。
歩いてくればそうたいした距離ではない。けれど、車を使おうと思ったら大変だ。カフェは大通りから1本入った通りに面しているので、まず大通りまで戻り、それから橋の向こうの一方通行の通りに出なければ私の店まで辿り着かない。
この道を歩くたび、それは私たちみたいだなあと思うのだ。
もしも学生の頃から――もしくは、もっと幼い頃からの友人知人であったなら、何でも知っているが故に衝突したり、それによって離れたりするのだろう。実際、そういう友人知人を数え上げればキリがない。
とかく若い頃の対人関係というのは自分の全てを預けがちだ。だからこそ「一生の友人!」などと臆面もなく言えてしまうのだろうけれど、年を重ねて環境が変わればそれはそのままでは驚くほど呆気なく崩れるほどに脆いものだと気付く。
だからこそ、大人になってからの対人関係というのは良くも悪くも礼儀を欠かさないというのがどれほど重要かを知っている。計算と経験が働く分、自分も相手も無駄に傷つくリスクは減る。
つかず離れず。カフェから私の店までの距離のように。
カフェの横のわき道を抜け、店を見上げながら隣の花屋へと急ぐ。「アタシをこんな時間まで働かせる!? ねえっ!?」と明らかに不満顔の店主を宥めて、注文してあった花束を受け取った。
カフェへと引き返しながら時計に目をやると、日付が変わるまであと数十秒というところだった。
厨房にはまだ明かりが灯っていた気がする。ああ見えて勤勉なマスターはきっと今日もまた、客の窺い知らぬところで「ムキー!」とか「げふーん」とか奇声を上げながらケーキの試作に励んでいるだろう。
いや、ああ見えて策士で腹黒なマスターはまた何か企んでいて、甘い香りに包まれながら怪しく笑っているということも考えられる。新調したばかりの眼鏡をキラリと光らせて。
もしかすると、ああ見えて乙女なマスターはごくごくプライベートなことに悩んでいて、客のいない真っ暗な店内でこっそり声を殺して泣いているかもしれない。
けれど今日は大切な日だ。最近、男前度が急上昇だと専らの噂の彼が来ていて――短くなった髪をちょっと気にしながら――そんな乙女なマスターに手を出して、違った、マスターの手を取って、普段会えない分ご機嫌取りの真っ最中かもしれない。
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