order book 032 1/2
『そして明ける夜』
夜中に洗濯機を回すなんて近所迷惑な、だとか、お前に小言を言われそうなシチュエーションなんてのは俺の生活の中にざらにある。
実際俺は何度も何度もお前の小言を食らっては、学習するでも反省するでも改心するでもなく、今日に至っているわけだけど。
俺の生活能力のなさはお前がよく知っているはずなのに、『友達の時は許せたけど恋人になってからは別』だなんて言って、お前は俺を叱るのな。
なんだそれ。普通逆じゃねぇの?
でも『恋は盲目』なんてのは三十年を超えた腐れ縁には通じない論法なんだとかで、裏を返せばそれだけ踏み込んだ間柄ってことでしょ、なんて丸め込まれてる俺の気持ちがお前に通じてるかどうかってのはわかんないから、俺はそのちょっとした悔しさと情けなさを、部屋干し用の液体洗剤と一緒に洗濯機の中に入れた。
…俺んちの洗剤を勝手に変えるくらいなら、ついでに染み抜きのやり方も書いて置いとけ、バーカ。
お前が起きてたら絶対小言を食らうんだろうけど、今夜はいつもと違うから。俺の独り言は洗濯機の渦の中に紛れて消える。
降り続く雨の音に混じる、人工の水音。
少し前まで聞こえていた鼻を啜る音は、今は規則的な寝息に変わっていて、俺は少しばかり安心してベッドを抜け出て、今に至るわけだけど。
女に泣かれるのが苦手じゃない男なんて、いない。
シャワーで汗ばんだ肌の匂いを流して、使ったタオルもついでとばかりに洗濯機に放り込む。
回りだした洗濯機からはぐるぐる渦巻く泡がはじけて、気持ちを落ち着かせる清潔な香りが漂う。
「お前だってもういいトシなんだから」なんて言ったら、「人のこと言えるの」なんて返されそうだから言わないけど。
「今更そんな計算をされても」なんて言ったら、思いつくだけの悪口を返されそうだから言わないけど。
「思ってもみなかったことが起こったから流石の俺も動揺したんだぞ」って。言ったらお前はどんな顔をするかな。
動揺したけどちょっと感動もしたんだぞ、なんて言ったら。
歳を取ると涙脆くなるなんて言うけど、みんながみんなそれに当てはまるとは限らない。
現にお前は『大人になると泣くのが難しくなる』と言ってビールをあおってたっけ。確かまだ、梅雨入りする前のいつもの店で。
呑みながら、ふざけ半分といった感じで弱音を吐かれたことはあったけど。男に振られた話を延々聞かされたこともあったけど。
俺が告白した時は別として――泣き言は言っても実際に泣いたことはなかったお前が、玄関のドアを開けた俺の前で、濡れ髪で俯いて――
あの時俺がどれだけびっくりしたかなんて、お前は多分、わかってない。
梅雨時の憂鬱な空模様が、まさかピンポイントで俺の隣に出現するだなんて。
気配もなく訪れるものに、そつなく対処できる奴がいるとしたら――そいつはきっと、神様かなんかだ。少なくとも俺じゃあない。
ドアが閉まる音がやけに大きく聞こえたのは、夜も更けた時間帯だったからだとか、そういうののせいじゃない気がした。当たり前のことじゃなくて、特別なことのような気がした。
力なく下げられたお前の手の先、仕事用の黒いバッグから滴るものが、玄関のタイルの目地を濃い色に変える。
靴も脱がないままのお前が香らせた雨と香水の混ざった匂いで、少しだけ、喉の奥が痛かった。
『男と女なんてさ、そんなもんだって』
俺がいつか言った台詞は、今思えば随分短絡的なものだったと思う。
女に泣かれるのはそこにどんな理由があろうと苦手で、だから巧い慰め方なんて知るわけもない。かと言って『男が女を慰める』、そんな短絡的な行動に出られるほどお前は軽い存在じゃない。
俺はそんなに器用じゃないし、そんなことはお前だって嫌ってほど知ってる。
『男と女なんてさ、そんなもんだって』
互いに踏み込んだ俺達はもう、それだけでは終わらない関係を築きつつあって…口には出さないんだけど、俺はそれを嬉しいと思っていた。
ただ、俺は――お前の気だるげな横顔があんなにいいものだなんて、まだ知らなかったから。
お前の濡れた睫毛があんなに色気のあるものだなんて、まだ知らなかったから。
だから、お前の髪が俺の髪にも湿気を移して、俺のシャツを濡らすのに、さして時間はかからなかった。
俺はもちろん神様なんかじゃなくって、そして予想に反することなく、ただの男だったってわけだ。
…面目ない。
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