order book 035 1/3
『rain fall』
失敗だった、と思う。
家を出たときの意気揚々とした気分は、すっかり無くなってしまっていた。
路線バスの揺れにうっかり心地よくなったのがいけなかったんだ。
気がついたら停留所は目の前で、慌てて降りた俺の肩に、灰色の空から細かな粒が落ちてくる。
――前の席の手摺に傘を掛けたままだ、と気づいても後の祭り。バスはすぐ前の信号を右折したところだった。
「……」
降り始めの雨のにおいが鼻をくすぐる。瞬きを繰り返して、まだどこかぼんやりとした視界を目覚めさせる。すれ違う人の傘を避けながら、アイロンをかけたばかりのシャツを気にしながら、雨宿りの場所を探した。
雨はまだ小降りで風もなく、アスファルトに音もなく染みを広げている。靴が跳ね上げる雫がないのが救いの、雑踏。
目を上げると、信号待ちの向かい側に、見晴らしのよさそうな喫茶店があるのを見つけた。窓際の緑と信号の緑に、人の間をぬうようにして、俺は駆け出す。
――ポケットの携帯電話はまだ震えない。
待つ時間は嫌いじゃない。けれど、待っている間の時間の使い方には、自分のために、少しだけ、気を遣いたかった。
『そうした方がぐっと笑顔の確率が高まるんだから、時間があるなら、ちゃんと自分のために使って』
気を遣いたがる俺に、彼女はよくそう言って聞かせた。俺の目尻に皺が増えたのは、きっと、彼女のせいだ。
失敗だった、と思う。
窓際に陣取ったまではよかった。下で感じた通り確かに見晴らしはよく、帰宅ラッシュの交差点がよく見通せる。この分だと、携帯が鳴る前に彼女を見つけられるかもしれない。
けれど下から見ていた時と違い、窓際を飾るグリーンは交通量に比例した埃を被ったフェイクグリーンで、それが雨に濡れてまだらになっているものだから、直視に耐えない。
しっとりと濡れたシャツが肌寒さを感じさせるので、ウェイターにはホットコーヒーを頼んだ。
「…苦い」
コーヒーの淹れ方になら俺だって多少は気を遣う。でもこれはない。必要以上の、香りに比例しない苦さ。
…苦さを軽減させるのは砂糖の方だったか、それともミルクの方だったか?
ど忘れしたので両方入れることにして、俺は大きなカップを頼んでしまった自分に溜め息をついた。なおざりにスプーンを使う手がかしゃんと音を立て、小さく流れるボサノヴァに紛れて消える。
外から連れてきた、手の甲に付いたまま雫を掃い、視線を落としたついでに靴に落ちた雫も掃う。
彼女が着いたら、店を変えよう。それは決定事項だ。
久しぶり、と電話の向こうで彼女は言った。
元気、と俺は返した。
そうね、そんな言い出しから始まる近況報告に、ああやっぱりこの声だ、と俺は確信したんだ。
――近頃の俺に足りなかったもの。どこかもやもやと晴れない、最近の空のような心に足りなかったもの。
会いたいな、そう言ったら彼女は笑った。いつもならもう寝ているはずの時間なのに、まるで朝起こしに来てくれた時のような、優しくて温かな声で。
寂しかったの、語尾は上がっているのに疑問系じゃない、それは俺への確認じゃなくて、彼女の気持ち、そのもの。
明日会いに行くよ、そう言ったらまた彼女は笑った。だけど今度は少し声が震えて、ああ我慢させてたんだな、と、今すぐ抱きしめたい気持ちになった。
明日ね、明日。着いたら電話して。仕事が忙しかったら、遅れてもいいからね。
電話を切った後しばらく眠れなくて、俺は何度も寝返りをうって、――そしてようやく、朝が来る。
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