order book 035 2/3




 半分まで飲んだコーヒーに、やっぱり今店を変えようか、という気が起きては、人待ちの都合のよさと天秤に掛けて、溜め息とともに消えた。
 下ろした視線の先、定期的に赤と緑を繰り返す信号の光は、窓ガラスの雫を通すと歪んで見える。すっかり濡れたグリーンが、ぼんやりと窓の下を縁取る。
 日が長くなってきたとはいえ、雨の止まない夕方の空は、重い灰色が低く圧し掛かるようだ。気分が沈んでいけない。
 向かいに見えるビルのまだら模様が増えるのに比例して、アスファルトが見える面積が減った。地下鉄の動きは、信号を渡る人の数の増減ですぐに分かる。傘がぶつかる様子も、窓際の席からはよく見てとれた。
 それはとても不思議な光景だった。――たかが直径何十センチの間も守れずに、たくさんの人がそこで生きている。
 上から見ているだけでも、そこにある人間模様はなんとなく窺い知れた。留まるもの急ぐもの、寄り添う傘、離れる傘。ふたつのうちのひとつが閉じて動き出すのは、きっと、待ち合わせをしていたのだろう。何台も行き来するタクシーに、迎えらしき車もちらほら見える。
 …これだけの人込みで誰かを探すなんて。通信手段の発達した今だからこそ、叶うこともたくさんあるのだろうけど。
 その中に、ふと、見慣れた車を見た気がして、俺は流していた視線を止めた。歩道に寄せて停められた車のすぐ脇で、女性らしい色の傘が閉じた。
 ――アイツは今、幸せな恋愛をしているのだろうか。
 車はすでに視界から離れている。友人の顔を思い浮かべながら俺はカップを口元に寄せ、そしてまた溜め息をついた。
 …ああ、また、この苦いコーヒーのせいで俺の幸せがひとつ逃げる。
 そう言うと彼女はきっと、『そんなの嘘でしょ』と言って笑うのだろう。彼女は前向きで、とても、とても可愛い人。
 そんなことを考えながら、ぬるくなったコーヒーを口に含む。すると甘さが増したような気がするのだから、人間なんて単純なものだ。
 彼女を思うと自然と笑みが零れる。
 ああ、ひとりで静かに窓際の席でにやけている、なんて。見つかったら絶対笑われるな、と思いながら。


 あのね、と言う、話し始めの可愛らしさが好きで。
 そばにいると、陽だまりに包まれるような暖かさが好きで。
 頬の丸みに朱が注して、咎めるような目で照れるのが、また好きで。
 俺にはうまい表現なんてできるはずもなくて、だからいつもストレートに言うことしかできないんだけど。
 本当に、本当に、君が大切で大好きだから。


 ようやく空になったカップと、重みを増してくる灰色の街。コンクリートの迷路の間を傘が行き交い、そこでは俺の知る由のないたくさんのストーリーが生まれて、そして、終わってゆくのだろう。
 地下鉄が着いたようで、交差点の向こう側には新しい傘がたくさん花開いていた。
「…あ、れ」
 今しがた開いたひとつの傘に俺は見覚えがあって、慌てて会計を済ませて階段を駆け下りる。
 丁度信号が緑に変わり、傘のトンネルを潜るようにして人波の間をすり抜け、俺はその手を捕まえた。
「!?」
「おかえり」
 携帯を耳元に当てた彼女がびっくりした顔で俺を見ると同時に、俺のポケットの携帯が震える。
「なっ、なんで」
 あんまり面白い顔だったから俺は笑いながら傘を受け取り、彼女の側に傾けた。誰かの傘の縁から零れた雫が、俺の肩を濡らした。
 行き交う人にぶつからないように、彼女の肩を抱き寄せる。
「ずっと、探してたんだ」
「…うん」
「呼ばれる前に、見つけたくって」




  back
  next

  order
  menu
  home