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『wind of change』


 失くした、と思うのは、それを所有していたと思うからだ。
 この手にあったと思うからだ。
 アイツの心が、アイツの身体が、――それが例え一瞬だったとしても。


 何も新宿に限ったことじゃないけれど、都心はビル風が強すぎる。
 昼飯を食べるついでに気晴らしの散歩でも、と外に出たはずが、たかが数歩踏み出しただけで足が後ろへ戻りたがる。そんなの別に俺だけじゃないだろう、今日みたいな天気の日は特に。
 耳元で唸る風。ひとの体感温度を一体どれだけ下げれば気がすむのか、それは一向に止む気配がない。
 ただ、時折ふと、ビルの陰で温く滞るだけ。
 何の気晴らしにもなりゃしねえとぼやく足はそれでもゆるゆると前へ進み、馬鹿みたいに上へ上へと伸びたビルを見上げながら止まる。俺はいつも疑問に思うのだ。――コイツら、いったいどこまで伸びる気なんだろう。
 首が痛くなるほど見上げても、ビルのてっぺんは見えない。まるで競い合うように、隣のビルも、その隣も。霞がかった空と混ざり合って、それはどこまでも、どこまでも続いていそうな錯覚。
 ――『果て』というヤツはあるんだろうか。この空に。この摩天楼に。
「うおっ寒っ」
 競い合うビルの間を縫うように吹きすさぶ風に思わず声が出た。俺は少しよろめいて、コートの前をかき合わせる。慌てた腕が、誰かの肩に触れた。
「ああ、すんません」
「……」
 甘い香りが、鼻を掠めた。
 通りすがりの、OLだろうか。ブランドものの財布を手にした棘のある視線は、俺を一瞥して、ヒールを鳴らして小走りに信号を渡って行った。視界の隅で、パステルカラーのショールが軌跡を残して揺れる。
「…ああ」
 鈍く点滅していた緑が、待ち時間を示す赤い光に変わった。
 気がつけば誰もみな、とうに縞々の向こうに渡りきり、近くに並ぶ肩もない。

 昼も夜も街は苛立っている。
 みな足早で通り過ぎ、振り返るのも面倒だと言わんばかりだ。
 後ろを向く暇があったら前を向いて、少しでも高く、少しでも先へ。
 街を行く他人よりも。隣の席の同僚よりも。昨日の自分よりも。

 見上げた空、霞んだ雲の端の動きを目で追うと、とたんに強くなる視界の揺れ。
 地上のちっぽけな俺と、揺るぎない摩天楼。本当に動いているのは、揺れているのは、この空なのか、それとも――
 風が雑踏を通り抜け、髪をなぶって走り去る。
 それは俺を取り巻くようでいて、俺から全てを奪い去るようでいて……どこか懐かしさを感じさせる、相反した気配。
 どんなに望んでも、この腕の中には留まらない。
 どんなに願っても、この腕の中から消えてゆかない。

「……」

 誰も立ち止まらない、誰も振り返らない新宿のど真ん中で、俺はゆっくりと振り返った。
 強い風の中に紛れる、アイツの声を聞いた気がして。
 暖かい淀みの中に紛れる、アイツの気配を感じた気がして。
「…まさか、な」
 ――そんなはずがないとは言いきれない、あれは同じ場所と、同じ季節。
 目を閉じると、ただ風の唸りだけが、立ち尽くす俺を取り巻く。




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