order book 036 4/5




 …オマエ、鍵につけてたキーホルダーは。
 …どこかで引っ掛けちゃったみたいで、取れちゃった。
 ふうん。
 ……。
 そのネックレスに通してる指輪は。
 もらったの。
 誰に。
 …友達。
 …ふうん。

 煌めく爪に引っ掛けた指輪を見て、オマエが笑う。
 唇の端が描いた弧を見たくなくて、俺は強引に、その唇を奪った。


「…今日は、駅まででいい」
「なんで」
「なんでも」
 急激にぐっと冷え込む、春の夜は人に優しくない。
「寒くないか?」
「…別に」
 そう言っておきながら彼女はふるりと肩を震わせ、それを見て取った俺はエアコンの設定温度を少しだけ上げた。
 温く滞る空気が取り巻く、滞ることのない夜。この先の夜に続くであろう彼女の言葉を俺は心のどこかで予想して、……そしてふるりと震える。
 音のない車内で、ウインカーの規則的なリズムだけが響く。沈黙の中、やたらと長く感じられる赤信号は、けれどそれだけが理由ではないだろう。
 ――俺はオマエを見ているのに、オマエは俺を見ない。
 どれだけ見つめても振り向かない横顔に、落ちる睫毛の影が長い。乱したはずの化粧は、滲んだはずの口紅は、街灯の安っぽい光の下で、数時間前の姿のまま。首筋にひとつ残された痕に気づかない女が、ただ、そこにいるだけだ。
 俺はオマエを見ているのに、オマエは俺を見ない。だから――
「信号。変わったよ」
「…ああ」
 業を煮やした後続車のクラクションに、彼女が小さく「煩いな」と零した。それは今にも舌打ちをしそうなトーンだった。
 前の車のブレーキランプが消え、嫌が応にも動かざるをえない状況で……どうして俺は、アクセルを踏むのを躊躇い、前に進むことを拒もうとする。
「……」
 窓の外を眺めたまま、彼女が息を吐いた。長すぎる溜め息の細く消える熱が、窓の外に流れる街灯の列の速度を上げる。

 何度夜を重ねてみても。
 抉じ開けた指でどれだけ慈しんでも。
 決して全てが開かれることのない扉の前で、向こう側に射しているであろう光に、――どうして、この手は、届かない。


 夜中に近い時間帯の駅前のネオンは、妙に冷たい色をしていた。誘蛾灯のような見せかけの賑やかさが目に沁み、いつものように音もなく点滅するハザードが、今はなぜか、心音の乱れを助長させる。
 乾いた唇を舐める俺に、声をかける彼女の唇はメタリックな艶めきを刷いて、ネオンの光を反射する。
「…ありがとう」
「…いや」
「そうじゃ、なくて」
 彼女はおもむろに財布から何かを取り出し、俺の手に握らせた。それは、キーホルダーを失くした鍵、だった。
「――ありがとう、楽しかった」
 助手席のドアが開き、ショールが翻る。一瞬視界を覆いつくしたパステルカラーに、これっぽっちも温かみはない。
 春とは思えない冷たい風が吹き込み、それを押し込むようにドアが閉められた。
 ――車内に風だけが残された。そこにはもう彼女の気配はなかった。

 ありがとう、って、なんだ。

 俺は、掌に乗った冷たい金属を見つめた。
 …その辺に転がっている安っぽいレンアイごっこか、これは。




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