order book 036 5/5
「…ありがとう、って、なんだよ」
思いのほか、掠れた声が出た。肝心なところで目を逸らす癖は、そのままだった。
俺がやった財布じゃない、彼女の友達が揃って手にしていた、ブランドものの新しい財布。誰かとお揃いなのかもしれない指輪。いっぱしの口をきくくせに、本質に対峙できずに群れに戻ってゆく、ずるくて弱い生き物。
ただ、ひととき話題にのぼる――男という、ファッション。
「なん…だよ」
――ありがとう、楽しかった。
ただその一言で、綺麗に終わらせた気に、なったんだろうか。俺の掌で温むのは、オマエの手じゃなくて、……ただ、この金属片だけだと。
俺は「ありがとう」も「ごめん」も全部、オマエに言いたかった。全部オマエに言われたかった。
オマエと同じ夢を見たかった。ふたりの未来を灯したかった。オマエが囚われているものをブッ壊す勇気も、オマエを守る覚悟もあった。
準備はとうにできていたのに。
この先ふたりで温めあう新しい鍵も、悪戯に夜に囁くだけじゃない「愛してる」も、全部オマエに贈るために。
俺には全部あった。何もかもあったんだ。――オマエ以外なら、全部。
窓の向こうに、もう彼女の姿は見えなかった。何事もなかったかのように、ネオンが冷たい光で次の広告を写し出している。
道行く人も車も、特に気にする素振りも見せずに通り過ぎてゆく。
この街に溶ける、ありふれたひとつの景色でしかないのだろう。冷たく光るネオンも、同じリズムで点滅しないハザードの長い列も、それから――こんな、レンアイも。
堪えきれずに熱い息を吐き出すと、握った拳の中で――いびつな夜が、終わりを告げた。
はぁっ。
ため息がビルの間を吹きすさぶ風に溶けてゆく。
ため息つくと、幸せが逃げるんだっけか。
…逃げろ逃げろ。
どうせ逃げて困るほどの幸せもないんだ。どうせ逃がすことしかできないんだ。
そして辿り着いた先がどこだとしても――それが例えば縞々の向こうでも、地上からは見えないビルのてっぺんでも、例えば『果て』とかいうヤツだったとしても――
隣にいるのは風だけだ。アイツじゃあ、ない。
目眩をやり過ごそうと深呼吸をする喉元を、風で翻ったコートの襟が擦った。
それは一瞬にして――アイツの頭が置かれた温度を、アイツの髪から香った甘さを、反射的に抱えようとする腕の動きを、記憶の淵から連れてくる。
――どんなに望んでも腕の中には留まらず、どんなに願っても腕の中から消えてゆかない。
拳を握り、熱い息を殺すように、奥歯を噛んだ。揺れて滲む視界はこの街の靄った気配のせいで……俺のせいじゃあ、ない。
新宿のど真ん中。長く伸びる縞々。甘い香り。駆け出すヒールの音。揺れるショールの軌跡。ブランドものの財布。
摩天楼。霞んだ空。通り過ぎてゆくざわめき。クラクション。そして風の音――
信号の緑が点滅している。
俺はまだ縞々の向こうへ渡れずに、ただ強く流れる風の音を聞いている。
-fin-
reproduced 【五鍵】
special thanks for ヒロコ@【五鍵】
plan and scenario : ヒロコ
scenario : 真知
copyright(c)2009 チームシアトリカル all rights reserved.
[theme : 春風]
8sites joint project 『君を恋ひぬ日ぞなき』vol.ex
deviser ヒロコ@【五鍵】
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