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『folding umbrella』


 鬱陶しいと感じる曇り空。階段を下りる俺とは反対に、階下の非常口からは湿った風が頬を撫でながら上がっていく。踊り場を曲がるたびに全身に梅雨独特のにおいが移っていき、それはまるで自分が何時間も外にいたかのような錯覚に陥るほどだ。実際は、職場にカンヅメだったというのに。
 どうやらタイミングが悪かったようで、窓から外を眺めた時には降っていなかった雨は裏通りの路面を叩きつけ、申し訳程度のひさしから絶え間なく滴り落ち、その下で躊躇う俺の革靴を濡らした。
 ――折り畳み傘なら鞄に入っているが、この勢いの雨にきちんと機能してくれるかどうかはわからない。
 普段なら静かなビルの裏手に、今日は雨のノイズと客を乗せたタクシーのヘッドライトが踊っている。夏に向かう空は、この時間でもまだ仄かに明るい。
 鞄から出した傘を丁寧に開き、少し色あせた紺色が頭上を覆ったところで俺は意を決してひさしの下から出た。書類の入った鞄が風に舞う雫で濡れ靴先が弾いた水がズボンを汚していくが、それが嫌で少し早く歩いてみたところで、結局同じだったのでやめる。
 お疲れ、という声に振り向こうとした俺の脇を、スーツの裾を翻しながら同僚が駆け抜けて行った。その手に傘はない。相変わらずアイツはツワモノだなと同期ならではの青臭い思い出を回想しながら、俺の脳は大事な約束を記憶から引っ張り出した。

『仕事が終わったら、いつものカフェで――』

 そう言えば、紗知恵がそう連絡をくれていたんだった。
 紗知恵とは付き合い始めて2年が経つ、いわゆる恋人だ。知り合ったきっかけは友人の紹介というベタな間柄。腐れ縁な悪友たちに「いい加減新しい女を見つけろ」といわれ、紹介されたのが彼女だった。
 その時の彼女は髪が短く、日に透けるとオレンジにも見える茶色い頭をしていた。第一印象は、今時で若い、そんなイメージ。その日は友人も一緒に食事を楽しみ、とりあえずはと、電話番号とメールアドレスを交換して別れた。きっとこの子と付き合うことはないだろうと思いながら、社会人としての礼儀上――そう、営業用の顔で名刺を配るように。
 彼女とは年齢差が5つあったし、俺自身が彼女のように派手、いや、活発な方ではない。無理矢理例えて妹くらいの感覚だろうと勝手に思っていたのに、その後何度か会う機会をセッティングされ、促されてメールも少しずつ交わすようになり……。
 確かに、彼女の明るさと笑顔はいい。だがしかし、そう思うようになったからといって色恋という意味での好意が湧くわけでもなく、メールが来れば返事を返す、そんな繰り返しがずいぶん続いていた。
 それが変化したのは、忘れもしない、6月14日。


 いつものように仕事をし、ふと時計を見ればとうに夕方を通り過ぎて針は8時を指していた。机を並べているはずの同僚の姿はすでになく、自分のデスクのモニターだけが煌々と文字を映している。急に疲れた気のする肩を軽く叩きながら窓際へ寄りブラインドを引き下げると、窓の向こうを雫が流れ落ちていくのが見えた。
 雨か。
 ふと思いついてフロアの入口まで歩く。いつもならドアの脇のスタンドに置き傘の山があるので少し期待していたのだが、今日に限って1本もない。いや、今日だから1本もないのか。誰か残して行けよ、おい、最悪だろ――。
 誰もいないとなると足取りは素直なもので、靴底を床に摩りながら俺はデスクに戻り、パソコンの電源を落とした。椅子にかけていたジャケットに袖を通して電気を消し鍵を閉める。いつもなら階段を使うのだが、あまりに億劫なのでエレベーターに乗り込んだ。
 下降する箱の中で、溜め息が理由もなくこぼれる。
 正面玄関はとうに閉まっていたので裏口に回り、ドアを開けると、狭いひさしの下に見覚えのあるような人物が立っていた。それが誰かを思い出せないまま通り過ぎようとした時、「無視しないで」と聞き覚えのある声が俺を呼び止めた。
「…?」
 振り返り顔を見ると、人影は紗知恵だった。オレンジブラウンの髪は黒く染められ、いつもとは感じの違う服――気づくはずもない程のイメージチェンジをした彼女がそこにいた。
「何してるんだこんな場所で。雨降ってるのに」
「…たまたま通りかかったから。雨宿り?」
 そう言うと紗知恵はやんわりと笑った。笑った頬に雫がスーッと伝っていく。よくよく見れば服も髪も湿っていた。
 嘘つきが――
 心の中の声は口に出さず、代わりに「ふぅーん」と、関心の低そうな声を返した。そんな俺にムッとすることもなく、紗知恵は自分の小さめの鞄から紺色の折りたたみ傘を取り出すと、俺の手にそっと乗せた。




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