board meeting 002 1/1




『Silent』


 さっきまで見えていた三日月は、いつの間にか風に流されて隠れていた。黒く光る海原に雲は低く垂れ込めて更なる闇を呼び、ただ陸との境だけが街の灯を映して仄かに白い。
 遠くを行く車のライトが、防波堤に寄りかかる細い背中を照らして通り過ぎた。――そうして訪れる、夜の静寂(しじま)。
 指先を唇にあて、その冷たさに思わず首をすくめた時、背後に人の気配を感じて彼女は振り返った。
 差し出される缶コーヒーの熱。受け取る手のひらが、じんわりと解れる。
 長身の影が彼女の背に寄り添い、コートの裾が触れ合った。唇からほろ苦さを流し込み、背中越しに体温を分け合いながら、ふたり何をするでもなく、ただ海を眺めている。
 息を吐く度に、それは白く、渡る風に流され熱を奪われていく。
 けれど心は温かい。遠くの街の浮かれたイルミネーションが羨ましくないわけではないけれど、それでもこうして静かにふたり寄り添っていることの方が、彼女にとっては幸せだった。恋人は忙しい人だから、いつでもゆっくりと過ごせるわけではなくて。
 だからわざと、海に連れて行ってと駄々をこねて見せたのだ。騒ぐ街中を腕を組んで行くことよりも、誰よりも側にいられる場所で、ただ自分のことだけを感じていて欲しかったから。
 彼女を抱きしめていた男の腕が、ふいにゆっくりと解かれた。振り向く彼女の手を取り、そのまま天を仰ぐ。それにつられて顔を上げた彼女の頬に、小さな結晶が舞い落ちてゆるりと溶けた。
「雪……」
 何かに急かされたかのようにそれは次々と降りだして、たちまち足元は白く染まって行く。微かな波の音さえもそれに飲み込まれて、辺りはまったくの無音に支配された。
「――帰ろうか」
 低くなめらかな男の声が耳元に滑り込み、その誘いに頷いた後で、彼女は少しだけ後悔した。髪を撫でて雪を払う手が、抱きしめてくれる腕の体温(ぬくもり)が離れていくのが切なくて。
 だから思わず手を伸ばして、車に向かうコートの端をつかまえる。
「今夜、……泊まってもいい?」
 返事の代わりの、短い触れ合い。
 サイドシートに乗り込むと、何故だか笑みを含んだ目に見つめられた。
「?」
「鼻の頭が冷たくなってる」
 そう言って喉の奥で笑う男の頬を指でつまんで、少しだけ彼女はむくれる。低い外気に長時間触れていたのだ。当たり前のように男の頬も冷たくなっている。
 ――困ったような横顔でさえ端正だと見とれてしまうのは、惚れた欲目だろうか。
 車のエンジンが温まるまでそうしてから彼女は手を離した。指の形が赤く残った彼の頬をいたわるようにそっと撫でる。
 レースの帳(とばり)のような雪をかきわけて、二人を乗せた車が走り出す。
 手入れの行き届いた彼の車は、運転技術の高さも相まって静かな振動を伝えてくる。居心地の良さは彼に対する信頼の証だ。心を許しあっているからこその優しい静寂。
 微かな笑みで見つめる先には、街灯に照らされて影を落とす長い睫毛。

 窓の外を流れる景色が段々と白く染まってゆくように、この想いは降り積もるばかり。
 今夜、降りだしたはじめの一片のように、その手に包まれて溶かされたい。

 信号待ちの一瞬に、彼女はシートベルトを外して運転席側に身を乗り出した。
 ――Merry Christmas。
 唇で軽く頬に触れる。紅色が少しだけ彼に移る。
 明日の朝にはきっと、移り香が彼を染めるだろう。

 窓の向こうでは、雪が、明日のクリスマスを白く迎える準備をしている。


 -fin-


image song : 中島美嘉 『雪の華』




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