board meeting 010 1/2




『僕を呼ぶ声』


 麗紅さん、と、僕をそう呼ぶ人はほとんどいない。
 例えば同僚ならば役職で呼び掛けてくるし、家族は呼び捨てだし、上司も呼び捨てにしてくる。
 別に、それに否やはない。
 極稀に「れいこうさん」と巧く発声出来ずに「れいこさん」と聞こえることがあるので、全く別の名前で呼ばれる気がするよりは呼び捨てや役職で呼ばれる方がいいからだ。

 彼女は僕を「麗さん」と呼ぶ。
 それは、僕が彼女を「寧さん」と呼ぶ時の響きと、とても良く似ている。


 植物園に夏の花を見に行ってきた、その帰り。
 いつものカフェのいつもの席で、いつもと同じメニュー。
 僕は珈琲。彼女は珈琲にショートケーキをセットで。
 苺が好物な彼女は、本当に嬉しそうにフォークで苺をつつく。
 苺には僕の名前と同じ品種名があるので、職場の大人たちに時々からかわれたりするのだけれど、僕も彼女も特に気にしてはいない。  僕らは多分、かなりのマイペースだ。

 互いのカップが空になる頃には、長い昼もそろそろ夕暮れ前という時間になっていた。
 夕食を一緒に摂ることはまだあまりない。
 どちらも食事は家族と一緒に摂ることが多いし、幾度となく重ねたデートも、大抵夕食の前に彼女を送って帰るからだ。
 今日もそう。マイペースののんびりペース。
 彼女には、じっくり育みたいと思わせる何かがあった。
「あっ」
「雨?」
 店を出たところで、アスファルトにぽつりぽつりと滲みができ始めて、さっきまではそんな気配はなかったのに、夏の雨は気まぐれで僕らを慌てさせる。
「寧さん、こっちに」
 一軒だけ軒が大きく出ている花屋さんの軒下をお借りすることにして、僕らは駆けた。
 鉢植えの間に身を割り込ませて、店員さんに会釈で断りを入れる。
 一ブロック先にコンビニの看板が見えて、僕は彼女を振り返った。
「傘買ってきますから、待っててください」
 すると雨粒に湿った髪を揺らして、彼女はかぶりを振った。
「濡れるから、止むまで待ってましょう」
 と僕の方へハンカチを差し出すのを、「あなたも濡れてるじゃないですか」と遮って、僕は自分のハンカチを取り出して、彼女のむき出しの肩についた雫を拭った。
 ただでさえ女性はひんやりした肌の持ち主なのに、濡れてしまった夏場の薄着では、店内から流れ出してくる冷房の風に負けてしまう。
「ありがとう」
 僕を見上げる大きなぬばたまの瞳が、「大丈夫」と語りかけてくる。
 ――こんな時に不謹慎だけれど、薄く色づく肌が色っぽいなと思ってしまった。

「きゃっ」

 突然の彼女の声に驚いて見れば、華奢なミュールの先に、親指の先ほどの小さなカエル。
 どうやら鉢植えの中から急に跳び出してきたらしい。
 スカートの裾を気にしながらしゃがみこんだ彼女は、「こんなとこでカエルなんて珍しいね」とカエルと僕を交互に見た。
「そうですね」
 近所に川が流れているわけでもない街中で、確かにカエルは珍しい。
 植物が好きだからか、彼女は虫や小さな動物を怖がらない。「かわいい」なんて八重歯を見せたりするその笑顔が、僕にとっては何より可愛らしく映る。
 隣にしゃがみこむと、落ちて跳ねる雨粒が間近に迫って、雨宿りというよりは雨を楽しむ風情になった。
 しとしとと店先のウッドデッキを叩いて、跳ねた雫が鉢植えのポトスを濡らしている。
 僕らの視線を浴びたカエルは気持ちよさ気に数歩歩いたあと、雨の只中にジャンプして行った。
 都会ではあまり出会えなくなってしまった、雨で湿った土の匂いが優しく香る。

「あいつはここに住んでるんだよ。鉢植えの中は湿ってるから、居心地がいいんだろうね」

 声に振り向けば、店の奥から店長さんらしき壮年の男性が僕らを見ていた。
「お邪魔してます」
 軒先からそう答えると、僕の隣で彼女がぺこりとお辞儀をした。
「通り雨だろうから、じきに晴れるよ」
 彼はそう言って、人好きのする笑顔をくれた。それから手近なバケツから向日葵を一本抜き取ると、僕らのところへ寄ってくる。
「可愛いお嬢さんにこれをあげよう」
「えっ」
 僕らが「ありがとうございます」とか「雨宿りさせていただいてるのに申し訳ないです」とか恐縮していると、彼は今度はニヤリと笑ってこう言った。




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